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ぴったりの箸置きを探して


週末の夕方、自由が丘に立ち寄り、目についた雑貨店を妻とめぐり歩いた。
トゥデイズ・スペシャル、イデーショップ、ケユカ、私の部屋、タイムレス・コンフォート。

うちにはまだちょうどよい「箸置き」がないため、良いものを見つけたら買い求めたいと以前から話していた。
妻が気になる箸置きを見つけたものの、店頭で熟考した末に、持ち越しになる。当然である。彼女は衝動買いなどしない。

妻の買い物に対する考え方は、じつに堂に入っている。
店先でどれほど気に入るものがあっても、その場ではまず買わない。
いったん家に戻って考える。その「もの」が、この家にどう収まるかを入念にイメージする。使い方をイメージし、使う時間をイメージし、捨てるときをイメージする。それらのビジョンが思い描けても、そこからまた時間を置く。ものを一つ買い入れるまでに途方もない時間をかけて納得していく。
数億円の美術品をオークションで競り落とすコレクターのほうがよっぽど気まぐれに入札しているにちがいない。

妻はいう。
一番良い買い物は、質が良くて、値段が安いもの。
次に良い買い物は、質が良くて、値段が高いもの。
それ以外のものは、買う必要はない。

その金言というか託宣に、毎度迂闊な衝動買いをしがちなぼくはのけぞる。

箸置きひとつでも、全体のバランスや世界観があるでしょう。と妻はいう。
お店でいくら素敵に見えても、それはお店の世界観を含めて提案されたものだから、「選ばされている」気がしてならないの。そのままうちに置いてみても、やっぱりちぐはぐに見えると思う。

それでは、お店の提案する世界観を丸ごと取り入れてみたらどうなのかと勇気を振り絞って訊ねると、それこそとってつけた借り物になるでしょう、と返す刀で粉砕される。

金額の多寡で購入をためらっているのではない。
本当に長く使えるかという、時間の長短を測っている。買うまでの助走時間を長くとるほど、その後の飛翔時間も長くなるはずだ。

「もの」との付き合い方は、そのくらい徹底的に考え抜かないと自分の身につかないというのは、まったくその通りだ。ぼくは、彼女のそんな“買い物観”に惚れ惚れしているので、黙して見守る。

妻はぼくの家に合流する形で同居を始めたこともあり、二人で一緒に新居をつくるような過程を踏めていなかった。だから、今さらながら雑貨屋めぐりは新鮮で楽しい。
「いいものを買う」こともさることながら、「いい買い物ができたね」と言い合えることがじつはいちばん肝になるはずだ。

つまり、うちにぴったりの箸置きが手に入るのはまだまだ先のことだろう。


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