授業参観にて
小学校に入学した甥の授業参観を、弟夫婦と一緒に見学させてもらう。
小学校に足を踏み入れるのは、もちろん卒業以来だ。教室の黒板はホワイトボードに置き換わり、上履きはぼくらのころよりずっとスポーティなシューズタイプに様変わりしていた。若い男性教諭が男児・女児の区別なく「さん」づけで児童を呼ぶのも新鮮だった。
「道徳」の授業では「きまりってなに?」と問いかける。次々に挙がる子どもたちの手。「やっちゃだめだなこと」「ぜったいなこと」
それからパネルをボードに貼り、「校庭でボール遊びをしていたら褒められたのに、教室でボール遊びをしたら怒られたのはどうして?」と先生が聞く。次々に挙がる手。興味なさそうに鉛筆遊びをしている子も、そわそわしている子も、母親に後ろから頭を突かれている子もいるけれど、のんびりと授業は進んでいく。気温は30度を超えても、窓を開けた教室に存外に心地よい風が吹く。
「ひとがけがをするから」と先生が板書すると「ひとって漢字で書いて!」と口々に声が上がる。「人」をもう習っているからみんな不服そうだ。
続いて、校庭でかけっこをしている絵が示されると、「あー次は廊下を走ってる絵でしょ!」と先回りされて盛り上がる。そうそう。子どものころってこうだった。
子どもはおろかあまり世間の人びととも接しない生活を長く続けているので、何もかもが微笑ましい。いかに世知辛い目線で、世の中を眺めてしまっているかを痛感させられる。仕事や為替や生活のことに脳内のメモリーを奪われて、世の中をちっともカラフルに見られていなかった。そのこと自体にも気づけていなかった。
次の世代の子どもたちが今日も同じ地域に生きていて、学校や地域の大人たちがちゃんと育てていることに頭が下がる思いがし、何かできることはないかとあわてて考えてしまう。せめて平和に、できれば豊かに、暮らせる社会を残したいのだけれど。