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スピッツの讃歌


スピッツの新譜『ひみつスタジオ』を、Spotifyで聴いている。
今でも新作アルバムが出るとかならず聴く唯一のバンドだ。中学生のころから聴いているので、よく言えば習慣で、わるく言えば惰性で、つど「観測」しているという感覚がいちばん近い。熱心なファンとも言いがたい。

この10年ばかりは、90年代の楽曲のように一度聴いたら耳に残る強力なメロディというより、偉大なるマンネリとでもいうべき円熟した安定感と、大らかな安心感がある。(あまり褒めているように聞こえないかもしれないが、これはとても褒めている)

新譜の中では「讃歌」という曲が気になった。
歌の中に「ライブが少しずつ戻るまで」という一節が出てくる。これはつまりコロナ禍のことを歌っている。サビでは「強い雨も砂嵐も汚れながら 進んでいきたい」「新しい歌で洗い流す すべて迷いは消えたから」と続くのは、コロナ禍を経た草野さんの毅然たる決意表明だろう。
背後に流れるコーラスはまるで讃美歌で、コロナ禍で亡くなったり傷ついた人びとを慈しみ癒やすような恩寵の気配をたたえている。

ところが、あとで歌詞を確認すると「ライフが少しずつ戻るまで」だった。
まったく聞きまちがえていたのだが、もはやイメージを修正できない。むしろここは「ライブ」と歌うべきだろうと思ってしまう。あるいは草野さんなりの照れ隠しで、あえてライブと言いたいところをライフと言い換えて、判る人に目配せしているではないかと邪推してしまう。

こうして積極的な誤読を果たしたとき、その作品は受け手のものになるのだろう。
どんなに文学作品を「精読」しようとも、受け手の解釈に恣意性や時代性を完全には排除できない以上、多かれ少なかれすべてはしょせん誤読なのだ。あらゆる誤読をも受け止め得る大きな器であることが、作品の普遍性や永続性に寄与する。
フョードル・ドストエフスキーの『地下室の手記』やフランツ・カフカの『変身』が、現代の引きこもり青年の心情をありありと描き切っていて慄然とさせられるのも立派な誤読だが、だからこそ一世紀を越えても読み継がれるように。


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