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怪物は誰


昼下がりの映画館に、妻と出かけた。
是枝裕和監督の新作『怪物』。
事前の期待をまったく裏切らない、見応えのある作品に唸らされた。カフェでケーキを食べながら、お互いの感想を話した。
この時間が、至福のときだ。同じシーンを見ても感じ方がそれぞれで(ときにまったく真逆で)深々と考えさせられた。

(以下ネタバレを含みます)

いちばん解釈が分かれたのは、ラストシーンかもしれない。
巨大台風が街を襲うカタストロフを経て、雨上りの草原を駈け出す二人の少年。坂本龍一の名曲「aqua」の抒情的なピアノを背景に、解放感を爆発させるように力強く叫ぶ途中で不意に暗転してエンドロールを迎える。

ぼくはこのシーンに一抹の希望を見ていた。
冒頭からの人間の暗部を抉るような不吉な予感は払拭され、問題はきれいには解決されないものの(観客の解釈にゆだねながらも)カタストロフ後を生き抜こうとする少年たちの笑顔で決着をつける爽やかさに、どこか救いを見た気がした。

ぼくは少年たちの正体が「怪物」だったとしたら、どんなに後味が悪いだろうと内心危ぶんでいたので、むしろピュアな部分が垣間見えて安堵したのかもしれない。
冒頭の不穏さを反転させるような群像劇による多面性を見せてくれたことで、社会の豊かさを感じたかったのもある。

妻の解釈は違っていた。
大人たちは結局、誰一人として少年を救うことができず、少年二人だけで「新しい世界」と対峙するしかない孤絶感に絶望を覚えたらしい。作中に出てくる人物のすべてに「怪物」の片鱗があり、実社会では自分もその一人として加担を余儀なくされている、という冷徹な世界観に打ちのめされたらしい。

たしかに作中に「純粋無垢な善人」は登場しない。
表層的な誤認をしていたり、流言飛語を助長したり、自己保身や誰かを庇うための嘘をついたりしている。我々が生きている世界そのものだ。
だから、登場人物が言っていることも本心なのかと疑いを挟まずにはいられない。そういう不安定な揺さぶりがある。(映画の後半では、同性愛の悩みを切り取っていたけれど、それ以前に発達障害を取り扱っているとも感じた)

ぼくと妻のどちらの解釈でもよいと思う。
むしろ、これは希望なのか、絶望なのか、と突きつけてくるところに本当の凄みがある。この作品は、粘り強く考えることを要求している映画とも言える。
妻と話すうち、ラストでじつは少年二人が台風で死んでいて、駈け回る野原は死後の世界なのかもしれないとも思い至った。(少年たちはしきりに「死後の生まれ変わり」や「世界の終り(ビッグクランチ)」という話題を繰り返しているので、あり得ない解釈ではないのだろう)

そして「怪物、だーれだ」というタイトルの問いかけが、映画館を出てもずっとこだまして消えない。

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