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雨上りの、とても静かな食堂で


金曜日、雨上りの夕暮れに妻と散歩に出た。
帰り道に公園に併設されたビストロに立ち寄り、テラス席でコースメニューをとる。気取ったお店でもなく、近隣の年配夫婦や、仕事帰りに読書に興じる女性などが、灯りを落としたまばらな座席で思い思いの時間を過ごしている。

一皿ごとに自然素材と香草とエディブルフラワーを活かしたメニューが続き、ゆっくり話しながら食べるうちにお腹も満たされた。
一皿あたりの分量としては多くないのに、ていねいに手を入れた料理を、たっぷり時間をかけて味わうことで満足感は得られるものだとあらためて実感する。男性の給仕も感じがよく、最後にはシェフを伴い挨拶をしてくれた。(コースメニューは月替わりと聞いたので、また来月も楽しみだ)

こういう体験を、自炊でも行えればよいのかもしれないが、実際には不可能に近い。
コースのように一品ずつ供するには一人が料理にかかりきりにならなければならないし、一皿に使われる多彩な具材を一つ一つ仕込む手間もかけられない。自宅で2時間近くもかけて食べるような時間の余裕も捻出しづらい。
週末を前にした晩に、静かな食堂で贅沢な気持で過ごせることはこんなにも幸福に浸れるものだと知る。帰り道の妻は上機嫌で、ぼくももちろん気分がいい。

日中、妻は仕事に出かけてぼくは在宅で仕事をしているため、一人で昼食をとるけれど、たとえ同じメニューを食べていても二人で食べるときほどのおいしさはまるで感じられないことを痛感している。単なる作業として黙々と食事を摂取し、味気なく終わる。(一人暮らしのときは当然ながら毎日がずっとそうだった)

おいしさの感覚にとって、何を食べるかより誰と食べるかのほうがじつは大きいのかもしれない。これは意外と見過ごされがちな気がする。
一般人の味覚などそれほどにあやふやなので(そもそも、空腹度合い、気分、場の雰囲気、照明や音楽、カトラリーの重さなど、料理の味そのものとは直接関係のない要素に影響されることはよく知られている)、料理は「おいしい」だけでは物足りないのだ。

おいしいだけのお店では、他でも代替可能になる。しかし、お店にとって悩ましいのは、誰と食べるかはお店が決められることではないところだろう。客層や客筋という言い方をされるようにお店の価値を半分くらい決めているのは“受け手の品質”なのだと思う。


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