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そこには、ぼくの知らない妻が写っていた。 飲み会、集合写真、勉強会、プライベート旅行。 ぼくと出会う前の、ずいぶん昔のフェイスブックにタグ付けされた写真群をスクロールして見せてくれた。 どれも笑顔が素敵で、ありあまるエネルギーがオーラのように画像に焼き付いている。楽しそうだった。 あのころは必死だったな、と彼女は懐かしむ。たしかに必死そうだな、とぼくも思う。 意志の強そうな瞳が、すこし意外だった。 よく言えば情熱的な気の強さが、悪く言えば衝動的な危うさが、どことなく垣間見え
妻のみみさんが、秋のコンサートに向けて熱心に楽曲えらびをしている。 古い歌曲がのびやかに流れ、部屋がぐっと格調高く高貴なムードに包まれる。クラシック音楽はぼくにはまるで縁遠い世界だったので、すこぶる新鮮である。彼女は楽譜をテーブルに広げ、時折、口ずさむ。とてもいい。 彼女は、重厚で懐の深い大柄な楽曲に挑みたいという気持を抱いているけれど、ぼくはどこか明るくコケティッシュな雰囲気の小品のほうが、今のみみさんの声質やチャーミングなキャラクタには合うように感じている。 もちろん、
暑い盛りの昼下り。大学時代にお世話になった文学教授のお宅に、妻のみみさんを伴って訪問した。 教授はだいぶ以前に退官されているので「元教授」ではあるけれど、文学翻訳や評伝の出版は数年に一度のペースで続けられている。ぼくは直接講義を受けたことがなかったのに、卒業後も折々にお目にかかって近況を伝え合うという、不思議な親交が長く続いている。 先日の結婚を報告すると、自宅に温かく招かれた。郊外線に乗り、新茶の手土産を携えて、数年ぶりにうかがった。 古いマンションの5階からは、窓越しに
円安が進行している。食品の値上げも相次いでいる。コンビニでパンでも買おうとすれば、気づけば200円近い値札がつく。 ハイパー・インフレーションへの備えについて先日簡潔に綴ったが、今日はまたその続きを考えたい。 「救命胴衣」としての「外貨準備」を推奨したけれど、これはあくまでも最低限度の備えにすぎず、救命胴衣をしているからといって海上に放り出されても「ふつうの暮らし」を保てるわけではない。カタストロフから一命を取りとめたあとには、いったいどんな生活が待っているのか。 それは
昼下がりの映画館に、妻と出かけた。 是枝裕和監督の新作『怪物』。 事前の期待をまったく裏切らない、見応えのある作品に唸らされた。カフェでケーキを食べながら、お互いの感想を話した。 この時間が、至福のときだ。同じシーンを見ても感じ方がそれぞれで(ときにまったく真逆で)深々と考えさせられた。 (以下ネタバレを含みます) いちばん解釈が分かれたのは、ラストシーンかもしれない。 巨大台風が街を襲うカタストロフを経て、雨上りの草原を駈け出す二人の少年。坂本龍一の名曲「aqua」の抒
ぼくら夫婦は毎日、便通の回数の共有している。 これはだいぶ奇特なことかもしれない。 (便通を直接呼称するのは気が引けるので、「うーさんがきた」「Wooo-san comes」と言い合っている) 便通に留まらず、ぼくの血圧や、妻の生理も把握している。 そこに恥じらいや衒いの類いはなく、今日の天気を確認するのと変わらない調子で報告し合い、確認し合う。 これは健康のバロメータだからだ。 その情報を元手に、食材や献立を考える。(食物繊維を増やしたり、腸内環境を整えたり、肉食を減ら
仕事帰りの妻とラグを携えて公園に行き、夕闇に塗り替えられていく空を寝転んで眺める。 先日のクラシック公演の話をする。 妻が師事する先生の門下生たちは、目先の演奏会に照準を合わせるのではなく、もっと長い目で音楽と向き合うのだという。演奏会が近づいても、平気で別の楽曲を練習するそうだ。これは驚くべきことだ。 妻が演奏曲で課題に感じている箇所をいくつか挙げたとき、「それは、今回は捨ててもいいのじゃないですか」と先生はさらりとおっしゃったらしい。苦手箇所の克服に残りの時間を費やすよ
妻のみみさんが、舞台に上がる日がきた。 新型コロナウイルスで長らく休止されていたコンサートが、久しぶりに催された。 彼女は日ごろから練習に明け暮れていたが、この数日間の追いこみは体調を危ぶむほどだった。 教会のホール。舞台中央にスタインウェイと複数の譜面台。先頭の客席に座る。いちばん近くの席で見守りたかった。客電が消え、奏者が登場し、華やかなドレス姿の妻が現れる。 すっと背筋を伸ばして立つ姿は凛々しく、気品があり、息を呑むほどに神々しい。(うちでは普段着で気ままに過ごすチャ
小学校に入学した甥の授業参観を、弟夫婦と一緒に見学させてもらう。 小学校に足を踏み入れるのは、もちろん卒業以来だ。教室の黒板はホワイトボードに置き換わり、上履きはぼくらのころよりずっとスポーティなシューズタイプに様変わりしていた。若い男性教諭が男児・女児の区別なく「さん」づけで児童を呼ぶのも新鮮だった。 「道徳」の授業では「きまりってなに?」と問いかける。次々に挙がる子どもたちの手。「やっちゃだめだなこと」「ぜったいなこと」 それからパネルをボードに貼り、「校庭でボール遊び
家人が寝静まった深夜、隣りの部屋で窓を開けて扇風機を廻し、手許の灯りだけ頼りに、音を立てないようにキーボードをゆっくりと打つ、この時間が好きだ。 街は物音ひとつせず、扇風機の旋回する音だけが耳を掠めている。深夜の米連邦公開市場委員会の会見を控えたニューヨーク市場の為替相場をスマートフォンで時折見遣りながら、100年前のドイツで起きたハイパー・インフレーションを思う。 「手押し車の年」と呼ばれることになる、世界史に残る一大経済危機である。大量の紙幣を手押し車で運ばないとパンを
予兆がないわけではなかった。 担当しているネーミングの事案で、登録商標で難渋している。 類似商標の障壁をどうクリアするかにあの手この手で頭を悩ませているのだが、クリエイティブ・ディレクターから「ブランディングを考える上で、そもそもの本質から外れている。商標をハックすることが正しいブランディングなの?」と問われて、ぐうの音も出ない。 しかし商標が取れない以上、次には進めないのでハックでもジャンプでもせざるを得ないではないのか。 昼までの抜けるような青空が嘘のように、夕暮れは厚
初めて一人暮らしをするとき、最初に決めた家電は食器洗い機だった。 販売店で食洗機の目当てをつけ、その寸法が収まる台所を条件に賃貸物件を探した。(食洗機は水栓を分岐してホースで繋ぎ、さらに排水する場所も必要なので、必然的に流し台のまわりに設置するスペースを確保しなければならない) これは、自分の中では「完全に自炊をする」という決意表明のようなものだった。 料理をつくるところまでは意欲的に向き合えても、片付けをする気力は残されていないことを避けるため(もしくは片づけが億劫になる
金曜日、雨上りの夕暮れに妻と散歩に出た。 帰り道に公園に併設されたビストロに立ち寄り、テラス席でコースメニューをとる。気取ったお店でもなく、近隣の年配夫婦や、仕事帰りに読書に興じる女性などが、灯りを落としたまばらな座席で思い思いの時間を過ごしている。 一皿ごとに自然素材と香草とエディブルフラワーを活かしたメニューが続き、ゆっくり話しながら食べるうちにお腹も満たされた。 一皿あたりの分量としては多くないのに、ていねいに手を入れた料理を、たっぷり時間をかけて味わうことで満足感は
いくらか気の滅入る話をしなくてはならない。文字どおり、気は進まないけれど。 長く慢性的な財政赤字が続く日本は、中央銀行(日銀)が巨額の国債を間接的に買い取ることでかろうじて存命している。「異次元の金融緩和」を10年以上も続けていることで、政策金利を上げる手札をなくしている。日銀がETFを買い上げる(質的金融緩和)というドーピングで嵩上げされた日経平均は、30年ぶりの高値更新で実体経済と乖離している。政府も日銀も、金銭感覚が異次元に鈍磨して久しい。 (いたずらに脅すつもりでも