スーパー銭湯とばば様
私は湯船に浸かることがとても嫌いで、基本的に湯船には入らない
湯船も初めは気分が良い
少し熱めのお湯に浸かりながら何も考えずに天井を見つめて、ふぅ、なんて言ったら頭の中も空っぽになる。
だけどそれから2、30秒もすると風呂場から少しずつ酸素を抜かれていくような感覚と、お湯が私を潰そうとしているような感覚が同時に押しよせてくる。
こんなに苦しいならと、いつからか湯船に浸からなくなった
その湯船に一昨日、約1年振りに浸かった。
スーパー銭湯の湯船に浸かった。
朝の10時に起きて、地元のばば様たちと浸かった。
気分が良かった。
壁に描かれた大文字山を眺め、42°のお湯に身を沈めたら、地球上の全てを受け入れられる気持ちになった。空気も沢山ある。
湯船はいいな!
名前もいい
湯の船
私をどこまでも連れて行ってくれ
大文字山のてっぺんまで連れて行ってくれ
気分の良いまま風呂から上がって髪の毛を乾かしながら、2人のばば様の会話を聞いていた。
94歳のばば様は話の区切りに
この歳になったらしんどいのが仕事ですわあ
と言う
もう1人のばば様はそれを聞いて
ほんまにそうですねえ
ここに来れることが今の幸せですわ
と言う
人間、100も近くなると求める幸せはスーパー銭湯に行き着くのだろうか
ばば様たちの話を聞き流しながら私は幸せについて考えてみた
湯船に浸かって大文字山のてっぺんまで行けたら私は幸せなのだろうか
幸せとは、いつも私の手を握っていてそれに気付く時と気付かない時があるだけなのだろうか
幸せとは、時々やってきては頬を撫でて去っていくものなのだろうか
幸せとは、人と比べて初めて気がつくものなのだろうか
幸せとはいったいどのように脳味噌に刻まれているのだろうか
そもそも刻まれているものをなぞることは本当に幸せなのだろうか
ばば様たちの会話と私の思考は永遠にループし続け、湯船の中に沈んでいった