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【歴史】岡左内4【生没年の考察】
さて、今回は岡左内の生没年についての考察をしていきたいと思う。
Wikipediaの岡左内の項を見ると、その生没年は1567(永禄十)から1622(元和八)年と書かれており、ここでは左内が55歳で没したことになっている。
果たしてこれは本当に正しいのだろうか。
・生年は推測に過ぎない
岡左内の生年が1567(永禄十)年の生年であるという説がどこから来ているのか考えた際、筆者には心当たりがあった。それは、前回の記事で検証した木村高敦の『武徳編年集成』「巻30 天正12年7月~12月」の1584(天正12)年8月15日の項、戸木城の木造具 政包囲戦の際の記述である。
ここで登場する「岡源八郎」の年齢の記述を逆算すると、1566(永禄九)~1567(永禄十)年頃となり、岡左内とは年代が合致せず、違う人物であったことをすでに述べたが、どうやらWikipediaではこれらを同一視し、その生年としているようなのである。
初陣がいくら早くとも「四歳」ということは有り得ず、しかもその人物が戦で活躍したなど到底信用できる訳がない。
・本当の生年はいつだったのだろうか
では一体、いつが本当の岡左内の生年だったのか、ということについて考えた時、結論から言えば、今のところ明確な年代は分からないというのが実情であろう。
岡左内についてこれまで、その家系や出生地、兄弟などを考察してきた通り彼に関する史料は断片的なものしか存在せず、生年についても同様、それを記したものはない。
ただ、彼の戦の記録として確かとは言えないが、1570(元亀元)年時点で、後に義弟・浅井長政による裏切りによって窮地に立たされることとなった織田信長の朝倉攻め(金ヶ崎の退き口)の前哨戦ともいえる手筒山の戦いにおいて、岡左内は活躍したと『氏郷記』に伝わっている。
これを正しい記述と考えるならば、またこの時、岡左内が20歳頃であれば、1550(天文十九)年の生まれ、さらに若く15歳頃であったなら1555(弘治元)年の生まれとなり、それぞれ72歳、67歳で没したことになる。
また、以前紹介した文献に『系図綜覧』があり、ここで山縣政信について「天正若州滅亡之時、年十五、岡定俊扶佐之」という記述があることを紹介した。1570(天正元)年、岡左内は手筒山の戦いにも見られるように、朝倉攻めに参加していたのだとすると、この時に山縣氏と接触していた可能性は考えられるだろう。
(また、「年十五」とあるのは山縣政信のことだと思われるが、もしかしたら岡左内のことを指しているのかもしれない。どちらにせよ、両者の年齢は近かったのではないだろうかと筆者は推測する。) 〈更なる検証は必須〉
これらはあくまで想定であり確証がある訳ではないが、次に没年やその他の記述を見て、そこから生年を紐解くことができないか考えてみたい。
・没年は1622(元和八)年あたりであろう
前記の文章の書き方からも察しの良い方はお気づきかもしれないが、筆者は岡左内の没年齢を1622(元和八)年あたりでほぼ確定させて良いのではないだろうかと考えている。
またその理由として、岡左内の死亡に関する以下の存在を挙げる。
① 没年に言及した史料二点
② 『會津陣物語』の記述
③ 生存を確認できる最古の史料
以下では、これらについて解説を加える。
① 没年に言及した史料二点
ここで言う史料とは次のものである。
・『一六二三年六月十日付、ジョアン・マテウス(・アダミ)の米沢、若松、最上地方に関する報告』(以下「報告」)
・『会津猪苗代城主城代録』
「報告」は1975(昭和五十)年、ポルトガル南部より持ち込まれたもので、猪苗代に滞在していたイエズス会宣教師ジョアン・マテウス・アダミの残した記録である。アダミは宣教師として1620年から会津で活動を始め猪苗代に居住したが、キリシタン弾圧が強まり左内が亡くなると長崎へ向かい、後に殉教する。
記録には、猪苗代では1622年5月から迫害の発端となった出来事が記され、その中に岡左内の「死」について触れた箇所が存在している。
ここでの岡左内(岡野越後)は、
「日本でもその名がよく知られている優れた武将であった。」
としながらも、
「高齢に達してからは閉じ籠りがちになり、さらに卒中の発作に襲われて言葉も発することができない状態」
であったというから、かなり老衰していたであろうことが読み取れ、甥とのキリスト教の棄教を巡る対立の末、棄教を果たした後は、当時十二歳であった城主の息子が病気のために亡くなり、その数日後に老人・岡左内自身も亡くなったとある。
(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第2期 第3巻 (1619年-1625年)』同朋舎出版、1997、189-204頁。)
つまり、岡左内が亡くなったのは、1622(元和八)年五月から翌年にかけての時期であると考えられるのである。次に『会津猪苗代城主城代録』を見ると、岡左内の死の記録について以下のようにある。
元和八年戌八月岡越後死去ス、磐梯山の南麓エケ沢ニ葬ル
ここでも1622(元和八)年としており、前述の期間に相当する。また、「八月」とあるから、迫害が始まってから三ヶ月後のことであったのだろうか。
② 『會津陣物語』の記述から
岡左内が上杉家に仕えていた時代、1600(慶長五)年以降の猪苗代城代は水原常陸介親憲という武将であった。そして、その小姓として仕えたのが「新国庄蔵」という、後に『會津陣物語』(『東国太平記』の基となった物語)を記した「杉原彦左衛門」その人である。
杉原が物語に記した岡の死の記述は以下の通りである。
蒲生宰相殿代に左内病死する砌、遺物として黄金三万両、正宗の太刀一腰を忠郷へ差上ぐ、又黄金三千両と景光の力を中書殿へ進上す、傍輩にもそれぞれに遺物を遣はし、日来の借手形、鋏箱一つにありけるを焼いて棄て申し候
つまり、蒲生忠郷の代に亡くなったとあり、忠郷の代とは1612(慶長17)年から1627(寛永4)年の間であるので、岡左内が亡くなったとされる1622(元和八)年を含んでいる。
ただし、岡左内死去の時にはすでに杉原(当時は新国)はすでに米沢に移っていたと考えられるため、どのようにこの情報を得たのかについては不明である。
③ 生存を確認できる最古の史料
岡左内は1621年(元和七)年にはまだ、存命であったと考えられる史料がある。『蒲生家分限帳』(弥勒寺本)である。ここには、猪苗代城代・岡越後守・100000石と記されており、また甥の左衛門佐は7800石と記されている。
(山ノ内岺生『会津文化財 第4号』会津文化財調査研究会、1984年、28-45頁。)
これらを総合的に見た時に言えるのは、依然として確実な断定はできないが、
1621(元和七)年までは存命で、1627(寛永四)年までには高確率で死去している。その中でも、1622(元和八)年かその翌年に死去した可能性が高く、1622(元和八)年八月が具体的かつ埋葬地まで記されているため妥当なのではないか、ということである。
また、上記の没年を生年と併せて考えた時に、やはり岡源八郎(当時十八歳)が岡左内であったとすると当時55歳頃にも関わらず、高齢で病気がちの老人と称されているのはやや不自然である。ただしこれが67~72歳頃ならば、まだその記述は可能性として有り得るかもしれない。
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