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【歴史】赤田隆について

赤田隆(たかし)

生没年:1480(文明十二)年―1555(弘治元)年十一月十九日
官位 :隼人正
別名 :曽我信濃守?
戒名 :常禅寺殿月海宗善大居士 (宝永元年諡号)

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【歴史】赤田衒・滋・輝について|赤田の備忘録

赤田滋―輝の二代にあたる室町中期の記録は全く残されていない一方で、今回扱うという人物については不思議なことに、史料には直接名を残さないものの、古記録による逸話がかなり多く伝えられている。これらの事跡は『豊郷村史』を始め、『多賀町史 上巻』や『久徳史』など多くの郷土史によって紹介されている。

早速、伝承・古記録である点に注意しながらも、隆の事跡について以下で紹介を行っていく。


・八町城の築城

赤田氏は近江に定着してから曽我(多賀町)の地に代々住んでいたが、理由は不明ながら永正(1504-21)年間、隆の代に至って所替えとなり、家臣の夏原氏・伊藤氏らを引き連れて八町(豊郷町)へ移り「八町城」(赤田城とも)を築いたとされる。

※赤田氏が去っていった後、曾我に入ったのが多賀豊後守高長の弟・久徳二郎定高であり久徳城に住んだというが、この時、もと赤田家臣の夏原氏の中にはこの久徳氏に仕える者もあったという。(『久徳史』14頁。)


また、『寛政重修諸家譜』によると、織田信長に仕えた森可長・蘭丸などで知られる森家の先祖・森可房は、1512(永正九)年に近江赤田城で戦死したと記されている。

『岡山県史第25巻 (津山藩文書)』は更に詳しく、永正九年九月十三日、将軍・足利義尹(のち義稙)が六角氏綱に命じて江州赤田城を攻めさせたとあり、森越後守可房・鯰江備前守高昌・朽木一党らが赤田城を夜討ちし、可房とその郎従・道家新左衛門らが討死したと書かれている。

なぜ、近江赤田城が攻められたのか、またこの赤田城がそもそも八町城を指しているかについても不明であるが、六角氏と京極氏の対立を考慮すれば、赤田氏が京極氏に仕えていたために攻められたのであろうか。

また、ちょうど永正の始め頃、近隣の高野瀬頼定(隆重)が六角方から京極方へ離反したことがあったが、これに赤田氏や高宮氏らが呼応して(おそらく共に戦って)いるというので、あるいはこの戦に関係している可能性もあるかもしれない。

(寺田所平『稲枝の歴史 増補版』1984.3。『近江史料シリーズ2本編』滋賀県地方史研究家連絡会 (滋賀県立図書館内), 1976年、127頁。)


現在は、白山神社境内から常禅寺境内にかけて、土塁・堀が残されている程度である。(規模:100m×200m)


・常禅寺の開基

赤田隆の古記録が多く残っている理由としては、寺の開基となったことが大きく関係しているだろう。隆は1541(天文十)年の61歳の時、家督を嫡子・興にった後に出家して仏門に入り、直指庵の住持となったといわれる。それ以降は禅定法昧の生活に入り、1555(弘治元)年に75歳で逝去する。

※常禅寺は延宝(1673-80)年間に、彦根鷹匠町の長純寺から五世・北巌察堂和尚により直指庵を山号、常禅寺を寺号として開山し、曹洞宗の寺院となった。


・赤田隆の逸話

『豊郷村史』には赤田氏に関するいくつかの逸話が掲載されているが、その中に隆についてのものもある。

治世に関しては、

赤田隼人正の代に、曾我から所替えをして八町の城主となったが、八町時代も赤田家は領内の水利を図り、橋を架け、道を開き、領民から親父のように敬い親しまれていた。

(藤川、1963年、401頁。)

と書かれ、続けてそれを示すエピソードとして「御綸旨の話」が挙げられている。

赤田家では、城下の領民が何か難題を訴えてくると、天皇から賜わった「御綸旨」を首にかけて仲介に立ち、立ちどころに円満に解決した。ある年、大名行列が領内を通りかかろうとした。折から秋の取り入れ時でその道をよけてほしいという農民の願いに、例の「御綸旨」を示して、大名行列の道替えをさせたという。

(藤川、1963年、401頁。)

また『豊郷村史』によると、赤田家の支配領域は「八町」を中心として、「石畑」「八目」「四十九院」「下之郷」「雨降野」などの六村辺りに渡っていたようである。

昭和30年9月には28・29日の両日に渡って、赤田隼人正四百回大遠忌が行われている。


その他の古記録

・『近江愛智郡志 巻2』(巻5)

隆であるとは断定できないものの、1539(天文五)年に「赤田」の名が複数回に渡って金剛輪寺の記録に見ることができる。


1539(天文五)年1月

「注進天文五年閏拾月下倉錢下用帳之所」

八十文 赤田殿へ肴之代

六十文 同時賀藤伊予守方へ肴之代


同年8月

八町において安孫子の者との間で喧嘩が発生する。八町領主・赤田氏と安孫子領主・安孫子又六は金剛輪寺の僧に仲裁を頼み、謝礼を遣わしている。

「注進天文五年八月分米下用帳」

二升 赤田殿ヨリ今度喧嘩之儀ニ付夜中ニ御懇ニ預候由御申候て御若衆御禮ニ御出候間上下二人酒


同年11月

「注進天文五年拾一月分下倉下用帳所」

五十文 赤田殿樽之肴代

五十文 同賀藤忠右衛門方へ肴之代


上記は隆が56歳頃のことと考えられるので、当主時代の出来事と推定される。
また、家臣の加藤氏の名も確認することができる。
(『近江愛智郡志 巻2』108-110頁。)



・『多賀大社叢書 典籍篇』

時期は不明ながら、「近江三十六人国司衆名前」として「赤田隼人正」の名がみえる。
(多賀大社叢書編修委員会 編『多賀大社叢書 典籍篇』多賀大社社務所、1977年、139頁。)


・大洞弁天当国古城主名札

『久徳史』の説明によると以下のように説明がある。

彦根大洞弁天本地堂内、背面の壁に近江国の彦根藩領内の古城主、古屋敷主の法名と俗名が金文字で書き連ねられている。これは井伊家四代直興の時、元禄八年(一六九五)弁財天を奉祠した際にその霊を弔うためにつくられたもので、(中略)その数二二八人に及んでいる。

(『久徳史』26頁。)

この中に「赤田隼人」も含まれており、その法名を見ると八丁村城主として「瑞竜院心海宗波居士」があるが隆を指すかどうかは分からない。


また子孫は諸説考えられるが、嫡子は「興」で、その他、「姓」「盛秀」「金五郎」などの子があったと言われている。


参考

・近江愛智郡教育会編『近江愛智郡志 巻2』近江愛智郡教育会、1929年。
・『岡山県史第25巻 (津山藩文書)』岡山県、1981年。
・『久徳史』多賀町久徳、1968年。
・多賀大社叢書編修委員会編『多賀大社叢書 典籍篇』多賀大社社務所、1977年。
・多賀町史編さん委員会編『多賀町史 上巻』多賀町史編さん委員会、1991年。
・藤川助三『豊郷村史』滋賀県犬上郡豊郷村史編集委員会、1963年。

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