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【歴史】岡左内3【岡重政と兄弟説】
しばしば岡左内に関する文献を読んでいると、彼と蒲生家家老・岡半兵衛重政を兄弟とする説が見受けられる。そこで今回は、蒲生家中にあってトップクラスの重要人物であった両者が、本当に兄弟であったのかについて考えたい。
・兄弟説
さて、早速ではあるがこの「兄弟説」を唱えるものの代表ともいえる文献について見ていこう。それは意外にも自治体誌の『近江日野町志』である。その上巻「岡半兵衛」の項では以下のように伝える。
岡半兵衛重政は岡越後守(岡左内)の弟なり。従軍の事諸書に見えず。蒲生秀行の再び會津を領し六十萬石を食むに至り、半兵衛を擧げて仕置奉行の筆頭とし、後三萬石を給せらる。
さらに、「町野左近助の室祖心尼」の項で「祖心尼」(通称:阿能)について説明する際にも、同様のことを伝える。
町野長門守幸仍に嫁せり。而して阿能の生める女子名「たあ」なる者蒲生の家臣岡左内(越後守)の弟半兵衛の子、吉右衛門の室となり、女子を擧ぐ。是れ即ち徳川三代の将軍家光の愛妾「ふりの方」なり。家光の子千代姫後靈仙院といへるはふりの方の生める所なり。
また冒頭の記述から、『近江日野町志』で述べられる兄弟説は伯爵松浦厚著「素行山鹿甚五左衛門」なる文章を参考にしたものであることが分かった。そこで筆者が調べた所、松浦伯爵の記した『素行子山鹿甚五左衛門』という書籍がたしかにあり、そこには以下のように書かれていた。
家光の妾たりしふりの方は、千代姫(後に靈仙院)の生母であって、ふりの方の父は、會津の岡吉右衛門(蒲生飛騨守の家中)。吉右衛門の父は半兵衛。半兵衛の兄の左内は、同蒲生家に仕へて越後守と稱し、弟の町野庄右衛門これも蒲生家に仕へて居たのである。
この記述では、どちらかというと徳川家との外戚関係において岡重政の家系を重視しているような書き方であり、岡左内はついでのような印象を受ける。また、単に推測からこのような記述が起こったのか、何か明瞭な史料を基にしているのかは不明である。
・非兄弟説
次にこの「兄弟説」を否定するものについて見ていきたい。その代表ともいえるのが、前稿でも登場した『近江蒲生郡志 巻3』である。そこでは、両者の家系について言及しており、以下のようにはっきり異なる系統であることを述べている。
岡半兵衛重政は同姓異族なり、伊勢人にして始め片岡半七と稱し氏郷に仕へ扈従たり
また、『史料徳川夫人伝』「自証院殿之伝系」の項においても、以下のように書かれる。
岡半兵衛は三万五千石を領し[……]本国は摂州松阪辺にて、始めは片岡と名乗り江州に住居し、故あって岡氏に改称し、氏郷に従属す。又、岡越後守は壱万石を領し、奥州猪苗代の城を相守る。其始岡左内と称す。是も江州の住士にて半兵衛重政とは別家なり。
これらから、岡左内と岡重政は兄弟ではなく、共通して重政は「伊勢」の出身で、始めは「片岡氏」を称していたことが説として存在することが分かる。筆者が前稿で考察したように、岡左内の出身は、「山縣氏」で生まれは「若狭」であると考えられるので、両者は合致しない。
・兄弟説の根拠は何か
結局、「兄弟なのか否か」ということについては、両方の主張があるものの、これらは共に明瞭な史料を以って論じられたものではなさそうである。そこで、再び「兄弟説」に着目し、その出処を探ってみた所、どうやらその根拠として、江戸時代中期の幕臣・木村高敦が将軍吉宗の命により記した『武徳編年集成』という歴史書の記述を挙げることがあるということが分かった。
そこには蒲生氏郷が木造具政の籠る戸木城を攻めた際、敵将・畑作兵衛重正という人物をある兄弟が打ち取ったというもので、この兄弟こそが左内と重政とするのだということであるらしい。『武徳編年集成』「巻30 天正12年7月~12月」の1584(天正12)年8月15日の項にある記述は以下の通りである。
岡源八郎(時ニ十八歳後義太夫ト改ム)畑作兵衛ト組デ危キ處其弟半七重政(後半兵衛ト改ム)幼弱ニテ能首ヲ取テ馳歸リシガ是ヲ見テ畑ヲ一太刀斬ト均ク源八郎刎返メ作兵衛ガ首ヲ得ル
これ自体が何を参照した記述であるのか不明ではあるものの、成立が1741(寛保元)年頃であることを考えると、後年の松浦伯爵はここから引用したのかもしれない。また、岡左内の初名を「源八(郎)」と紹介するものが多々見られるが、それもここに由来するのだと思われる。
果たしてこの記述に出てくる「岡源八郎」は本当に「岡左内」と同一人物なのだろうか。
・別人と考えられる「岡源八郎」と「岡左内」
結論から述べると、筆者はこの両者は同一人物ではないと考える。また、その理由は以下の通りである。
① 「岡左内」と「岡源八」両名の邸趾跡がある。
② 「岡左内」と「岡儀太夫」が併記されている。
③ 事跡と年代が一致しない。
それぞれの理由について詳しく見ていきたい。
① 「岡左内」と「岡源八」両名の邸趾跡がある。
ここで、既に述べた『近江蒲生郡志 巻7』「法興寺」の項を再度見てみると、法興寺(日野町木津)に在る岡宗左衛門の邸地の附近には、出典は定かではないが、岡半兵衛重政、岡源八、岡孫作、岡左内等の邸趾があったとしている。(『近江蒲生郡志 巻7』、弘文堂書店、1980年、645頁。)
そしてここでは、「岡源八」と「岡左内」にはそれぞれ屋敷があり、別人であるように認識しているのである。同一人物であったならこのような表記はしないであろう。
② 「岡左内」と「岡儀太夫」が併記されている。
こちらもすでに述べた文書であるが、蒲生家には「會津分限帳」が残され、蒲生氏郷時代の禄高を知ることができる。その中で「岡氏」を称する者のうち、上位五名を抜き出したのが以下である。
8000石 岡左内
4000石 岡半兵衛
2000石 岡惣左衛門
2000石 岡市左衛門
1200石 岡儀太夫
(滋賀県蒲生郡『近江蒲生郡志 巻3』蒲生郡、1922年、327頁。)
このように「岡左内」と「岡儀太夫(源八郎)」は禄高が異なっていることからも明らかに別人であることが分かる。
③ 事跡と年代が一致しない。
最期に年代の不一致である。
木造氏の戸木城攻略の時、前記の通り源八郎の年齢は当時「十八歳」であると書かれている。これは逆算すると、岡源八郎の生年は1566(永禄九)年頃であることになり、この戦以前の岡左内の活躍として知られるものには、1570(元亀元)年の手筒山の戦い、1578(天正六)年の摂津攻め、1584(天正十二)年の伊勢小山戸(小倭)の陣などが挙げられるが、同一人物であったとするならば、最初の記録と考えられる「手筒山の戦い」の時には「四歳」であった計算となり、戦で活躍したなどとは到底有り得ない。
以上のように、両者は別人であると考えられるが、「岡源八郎」という人物が実在したのもまた事実であり、この人物こそが本当の岡半兵衛重政の兄に当たるのである。
また補足として、岡左内には「岡左衛門佐清長」という左内の「甥」に当たり、左内死後に猪苗代城代・蒲生家筆頭家老となった人物がいるが、これほどの人物であっても岡重政系図にその記載はなく、また左衛門佐の父親について言及した史料は一切見当たらないなど、親子関係であるとするには不自然な点が多い。
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