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【歴史】赤田備の系統の考察
赤田等の四男・備の系統について、今回は焦点を当てて見ていきたい。
備の子孫は、各系図によると以下の通りである。
・『尊卑分脈』…
「七郎備」
―「左衛門尉榮」(観応二九十七於江州蒲生野合戦討死四十九歳「依無実子自先年以舎弟向為子」)
―「源次向」(貞和四於阿州風森合戦討死生年廿四歳)
―「孫次郎/左衛門尉直」
―「従五位下肥後守/彦次郎高」・「孫次郎成」
・『渡辺系図』…
「七郎備」(観応二辛卯九月十七日江州蒲生野合戦討死)
・『諸系譜 第三十二冊』…
「七郎備」
―「後醍院北面/蔵人照」(正平三年風森合戦討死)・「左衛門尉榮」(観応二九十七蒲生野合戦討死)
―「源次向」(実ハ舎弟)
―「左衛門尉直」
―「肥後守従五位下高」・「孫次郎成」
・『諸系譜 第十七冊』…
「七郎備」
―「左衛門尉榮」
―「源次向」
―「孫次郎/左衛門直」
―「従五位下肥後守/彦次郎高」・「孫次郎成」
以上の各系図に鑑みると、備系統の相続においては、「備―榮―向―直―高」であることがだいたいの共通点と言えると思うが、注意したいのは「榮」と「向」は親子ではなく、兄弟であるという点である。
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渡辺氏の系図では家督を相続したと思われる人物のみを記していることが多く、その他の兄弟は省略されていることも窺える。例えば、『諸系譜 第三十二冊』における「蔵人照」などがその例である。他の渡辺氏系図(『越後・佐渡 日本国誌資料叢書』)には「赤田七郎備」のあと「照」―「國」―「等」としているものも見られ、必ずしも親子関係ではなく、家督相続者や渡辺惣官などの継承者を記したものであるのだと考えられる。
したがって、備の子には「照」・「榮」・「向」の3人の息子がいたであろうことが考えられる。
備の系統は、佐々木道誉(京極高氏)に従い近江国へ移住し、「近江赤田氏」となっている。他の兄弟たちが足利直義あるいは南朝方へついた中、理由は不明であるが備は北朝の尊氏派の道誉に仕え、京極氏の中でも特に室町時代初期に有力被官となったようである。
・追記 (渡辺照について)
『日本地名大系』によると、「上津見保」(うわつみほ)について以下のようにある。
城端町上見うわみに比定される。山田やまだ川の支流二ッ屋ふたつや川が平地にでた所に位置した。南北朝争乱期には国衙領としての由緒により、大覚寺統・南朝方の支配を受ける状況にあったようである。
興国二年(一三四一)六月一四日、後村上天皇は勲功の賞として嵯峨源氏渡辺党の滝口蔵人(照)に上津見保を宛行っている(「後村上天皇綸旨」遺編類纂所収渡辺文書)。同様に射水郡東条庄地頭職も宛行っている(同年正月三〇日「後村上天皇綸旨」同文書)。
なお渡辺党は鎌倉時代以来、大覚寺統との関わりが深かったが、ことに承久の乱後関東に祗候して以来御家人として、越後赤田保(現新潟県刈羽村)地頭職を重要な拠点としていたから、同じ名越氏の守護支配下である越中においても所領を得ていたとみられる。
延元三年(南朝暦・1338年)新田義貞が越前金ヶ崎で挙兵した際、越後の新田党が援軍として赴く途中、越中新川で北朝側の守護井上俊清を打ち破った。この時の新田勢に滝口蔵人がおり、上津見を安堵された。
興国二年(南朝暦・1341年)南朝の論旨を滝口蔵人が受けている。「越中国上津見保為勲功賞可被知行者也天気如此悉之以状 左中将 滝口蔵人館」と記されている。
また源融(とおる)、渡辺綱の後裔で南北朝期に南朝方で活躍した渡辺照が、興国二年(1341年)に後村上天皇から越中国上津見保を賜ったとされているが、上津見保をこの地に比定して上見城はその居館として築城、使用されたのではないかとする意見もある。
(古城盛衰記3 - 上見城より引用)
※「上見城」は富山県南砺市上見に位置する。
また『大阪市史』によると、照・国父子の戦死した貞和・観応の元号が北朝年号であることから、父子は南朝から北朝に転じ、北朝方として戦死したものとして記されている。
※摂津を拠点とした渡辺氏は河内の楠木氏との関係が深かったという。