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【歴史】岡左内5【周辺親族の考察】
すでに岡左内の系譜については、尊属(先祖)方面にある程度の考察をしてきており、また岡重政とは兄弟ではないことも考察した。今回はその他、岡左内周辺の親族関係について記述等から取り上げてみたい。
・岡左衛門佐清長
不明な点の多い岡左内という人物であるが、その親族として最も著名であるのが「岡左衛門佐清長」であろう。
一般的に左衛門佐は、左内の「甥」であると言われ、左内死後に猪苗代城代を務めた人物でもある。また左内の生前から、キリシタン弾圧の風潮が高まってくると自らもキリシタンであったが改宗し、お家継続のため左内に改宗を迫り、手段を問わなかったので左内は改宗を余儀なくされたと言われている。積極的にキリシタン弾圧を推進したことでも知られ、伯父の家臣・コスモ林主計を改宗しなかったとして会津で斬首に処している。
1627(寛永四)年の蒲生忠郷死後は、伊予松山藩主となった忠郷の弟・忠知に仕えて仕置家老となったが、家臣間での争いを起こしたことで幕府に咎められ追放処分となった。(その後の動向は不明。)
この左衛門佐に関して、その実在はほぼ確実であると考えられる。その根拠として例えば、前述の1621年(元和七)年の史料『蒲生家分限帳』(弥勒寺本)には、左衛門佐は7800石と記されていることが挙げられ、またその他、以下のような数々の古文書類に岡左衛門佐清長の署名と花押が確認できる。
・『耶麻郡湯達沢新田村佐賀牛右衛門文書』
元和八(1622)年八月の湯達沢新田村の役を免じている文書。(『猪苗代町史』 による)
・『会津郡芦原村肝煎七左衛門文書』
芦原村と田代村の間での山境をめぐる議論について、元和七(1621)年十月十八日付で蒲生氏の奉行達が署名した文書。(『新編会津風土記 巻之三十六』)
・『大沼郡八重松村文書』
八重松村と日玉村の水論について、元和七(1621)年八月二十五日付で蒲生氏の奉行達が署名した文書。(『新編会津風土記 巻之七十二』 )
・『若松原町国安太吉文書』
慶長十九年七月九日付の文書で、兼定という人物に八木十五石、清太郎という鍛冶に五人扶持が与えられたという内容の文書。(『新編会津風土記 巻之十九』)
これら多くの文書にその名が見え、『蒲生家分限帳』(弥勒寺本)にも「越後守甥」と明記されているので、その実在と関係性には疑いようがない。
(※ただし、その父親については一切不明。)
・岡左衛門佐の妻子
左衛門佐の妻子については唯一、前回の記事で紹介したジョアン・マテウス・アダミの「報告」の中で記述されるものに限られるが記録がある。ここでは、キリシタン迫害を進める夫を持ちながらも内密でキリシタンになった人物と記されている。
左衛門佐の妻は、非常に賢明で分別ある婦人であった。彼女は読み書きができたので、ドチリナ・キリシタン、その他の侵攻に関する書物が手に入ると、まだ異教徒であったが、強い好奇心と熱意をもってそれらの書物を読み始め、徐々に私たちの信仰に愛情を抱くようになった。[……]この婦人はその夫には内密でキリシタンになった。[……]今やその婦人は、その手本と徳操をもって腰元たちとともに信仰に励んでいる。[……]その夫はすでに妻がキリシタンになったことを知っており、一度は力ずくで、嫌がり泣きじゃくる彼女からコンタツを取り上げたことがあるが、今のところは知らぬふりをし、彼女はデウスへの愛ゆえに、いかなる仕打ちをも甘受する覚悟を決めている。彼女の幼い子供が密かに父親の部屋に行き、コンタツを取り返して深い喜びのうちにそれを母に渡した。
上記の記述から、左衛門佐にはキリシタンとなった妻と幼い子供がいることが分かる。また妻のキリシタン信仰について「今のところは知らぬふりをし」とあることからも、為政者としてではなく、家族としての左衛門佐の人情の一面が垣間見える。
・岡左内の正妻と婦人、息子と娘婿
これらの人物もアダミの「報告」によるものであるが、特に岡左内の妻と婦人に関しては以下のように書かれる。(かっこ内は筆者による補足。)
(左内は)本妻であるキリシタンの妻を追い出し、その代わりに別の女を娶っていた。この婦人はまだ洗礼を受けていなかったが、この聖なる洗礼を受けることを切望しており、祈りや断食をし、その他の慈善の業を行って、キリシタンのような生活をしていた。とりわけ彼女は、すでに何年もの間……として…仕えていたが、家の世話をし病んだ老人(左内)の看護に尽くす以外余念がなかった。
この本妻はその後、司祭の協力により左内が呼び戻し無事和解したと言われ、また婦人はその侍女となって、それまで受けていた名誉と肩書きを投げ出したので人々に感銘を与えた、と記述されるが、この出来事が後の手段を厭わない強硬的な改宗を引き起こしたという。
というのも、以前に重臣たちが本妻を連れ戻すことを進言してきたが左内は聞き入れなかったのに対し、司祭の時には素直に聞き入れ従ったからである。非キリシタンであった甥の左衛門佐や娘婿の茂兵衛らは、(弾圧の風潮のある中で)このままにしておけば、家臣の反発が起こることや、左内がキリシタンであることが世間にますます知られて領地を追われる可能性を危惧し、当時十二歳であった左内の息子に棄教を承諾する連判状を強要するように迫ったのだと言う。
さて少し本題から逸れてしまったが、これらの記述から、左内には本妻と婦人、子に当時十二歳の子息と、(おそらくその姉であろうか)娘とその婿に茂兵衛なる人物がいることが確認できる。
1622(元和八)年に、当時左内の息子が12歳であったとすれば、その生年は1610(慶長十五)年の生まれとなるので、かなり晩年の子であったのだろうか。また同記録には、娘婿(茂兵衛)も四ヶ月後に病気で亡くなったとある。
また本妻に関しては、明治二十四年刊の『柏原織田家臣系譜』によると「蒲生家臣岡左内妻」として掲載されており、宇多源氏佐々木義賢の四男・高一の三女であるという説があることを示しておきたい。
(篠川直編『柏原織田家臣系譜』「源姓生駒氏」1891年。)
・物語による岡左内の子と孫
次に、以前紹介した杉原彦左衛門の『會津陣物語』やその後、国枝清軒によって編集された『東国太平記』や『武辺咄聞書』による親族の記述について見ていきたい。ここでは、岡左内の子を「左衛門」、その子(左内の孫)を「源五郎」としており、物語によって若干の出来事や記述が異なっているものの、子の名は左衛門で、その子の源五郎は忠知が伊予松山藩に移された時に浪人したことなどは大方共通している。
また同物語に、岡左内出陣の際、我々は常日頃から備えてきたのだから特別な準備は必要ない。むしろ他の者が今、戦準備をしているので、彼らが常日頃楽しんでいた芸能は戦前に嗜む者がおらず、明日終わるかもしれないこの人生なので、戦の前にこそ芸能を楽しむべきだ、と言って役者を呼び、子の左衛門にも能をさせたと書かれてあるので、著者は岡左内の子の名前を明らかに「左衛門」と認識していたことが分かる。
・『蒲生家分限帳』による親族
こちらも既出であるが、1621(元和七)年のものと思われる分限帳に以下の人物が確認できた。
小姓一番・岡左平次・300石 (左衛門左従弟)
小姓二番・岡浦右衛門・400石 (左衛門左従弟)
「左衛門左従弟」とあるので、岡左内の子と考えるのが妥当であろう。しかし、この時はまだ左内も存命で「老臣・岡越後守・10000石」と記されているので、もし左内の子であるならば「岡越後守子」などの表記でも良いはずであり、また「左衛門」の名も記されていないことに疑問が残る。
また、あるいは「左衛門」は左内の甥「左衛門佐」と混同したものかもしれないが…。
考察・検証の足りない部分も多くあるため、今後気の向いた時に進めることができれば、と思っているが、卒論のために筆者が調べた岡左内の周辺事項の紹介はひとまずここで終了しようと思う。最後に次回、史料や参考文献の記載をしておくので、興味をもった方は調べていただいて、新たな考察や文献などあれば、是非コメントに残していただけると有難い。
↓次回はコチラ
【歴史】岡左内6【参考文献とおまけ】|赤田の備忘録