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アタシは何がしたいのか?

 この人生、この宇宙、そのほかすべて……これはそもそも何なのだろうと、誰でもこれまでにたびたび自問したことがあろうかと思います。わたしたちはどこに存在しているのでしょうか。わたしたちは、世界というひとつの巨大な容れ物のなかにある素粒子の集積にすぎないのでしょうか。それとも、わたしたちの思考・願望・希望には、それぞれに特有の実在性があるのでしょうか。あるとすれば、どんな実在性でしょうか。わたしたちが現に存在しているということ、もっと言えば、およそ何かが現に存在しているということそれ自体を、どのように理解すればよいのでしょうか。そして、わたしたちの認識はどこまで拡げられるのでしょうか。

「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエル(講談社)

 引きこもりの日々も終わりに近づき、気付いたら出勤も増え、のんびりとキーボードに向かう時間も減りました。久々の投稿です。皆さんお元気でしょうか。

 引用が長くなりましたが、3月以降の日々の中で、ときたまフワッと頭に浮かぶのがタイトルのような言葉でした。アタシは何がしたいのか、そんな言葉がクルッと頭をまわることが多かったような気がします。

 来年には50歳になる私にとってもう残された時間はごくわずか。やれることだってそんなには多くはない。しかもこの3ヶ月は、私よりも若い仲間の訃報が相次ぎ色々と考えを巡らせることが多くなりました。

 「じぶんの後に続く若者たちの踏み台になりたい」これが私のいまの時点でのやりたいことです。私には子どもがいないので、どうしてもじぶんがいなくなった後の世界をお願いするのは、仕事や趣味で知り合った私よりも若い仲間たちになります。そんな方たちに「後は頼んだぞ」なんていうのはとても恰好が悪いので、せめて彼・彼女たちが、高く高く跳ぶための踏み台にでもなれたらいいかな、と思っています。しかも、できれば相当に高い踏み台になりたいと思っています。踏み台が高ければ、より高い場所にもたどり着けるってもんです。だからこそ、相当に踏むのが大変な高い高い踏み台に私じしんがならなくちゃならない。それこそが今私にできること、そして私がやりたいことなのかもしれません。 

 仕事柄、若い方々に何かを伝えることが同世代の人よりは多いかと思います。音楽の世界にも少しだけ関わっているので、同僚よりもさらに若い方と関わりを持つ機会も多いと思います。

 そのような中にいると、若者に対して私と違う接し方をする人も多く見かけます。たぶんそういう人たちの方が多いような気がします。その方たちはこう言います。

「教える側のレベルが、教わる側のレベルを決める」

 このような態度を私は「引っ張る型」と呼んでいます。私の言う「踏み台型」とは全く違う態度です。つまり教える側が自らのレベルを上げて引っ張れば、教わる側は高い位置まで上がってくる、という発想です。オレが優秀になれば、オレに教わるやつらも間違いなく優秀になるという発想ですね。これはなかなかに勇ましい「オレについて来い!」的態度ですし、教える側の「だから頑張らなくちゃ」というモチベーションにも繋がりやすい態度です。若い人と接することが多い人たちはこの立場を取る人が大変に多いです。例えば教育委員会なるところもこのような態度を推奨しています。

 でも、このやり方でいくと、お分かりかと思いますが、教える前から教えられる側の到達点が決まってしまうわけです。だからその結果、より良い師を見つけるために、教わる側は教わる前から右往左往してしまうことになってしまいます。良い学校、良い塾、良い先生。良い環境、良い職場、良い上司。そんなものを探してウロウロする難民たちの大発生につながることになります。東大を出た先生だから大丈夫だ、大企業の人が言うんだから間違いない、社長になった人の話が聞けるのはありがたい。そんな発言のひとつひとつもこの「オレについて来い!」型が世で支持されている証左かもしれません。

 この状況に対して私は常に違和感を感じてきました。教える側が教わる側の到達点として目の前にいる。こんなに味気のない現場があっていいのか、と。だって、目の前にいる人がゴール、ってそりゃつまらんでしょうにという感じです。

 だからこそ私は、若い人が「どこか分からないけど高いところ」へ跳べるような「踏み台」になりたいと考えているわけです。「踏み台」を踏んでみたら見える景色があるかもしれない、見えた景色が想像とは違う世界だと気付くかもしれない、高いところは苦手だとびっくりするかもしれない、そんな発見のための「踏み台」です。ゴールではなく「はじめの一歩」のための「踏み台」です。

 モノを考えたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、旅行をしたり。決してそのような私の経験は、誰かを引っ張り上げられるような「立派な私」になることにはつながらないかもしれない。けれども誰かを私がたどり着けなかった高みに届けるための「道具としての私」にはなることができるかもしれない。私という「踏み台」が高けりゃ高いほど、それを使った人はより高い場所へ跳んでいけるはず。だから私という「踏み台」をより高いものになるように努力していく。

 この先の私の目標も、引き続きそれでいいんじゃないかな。って思います。

 気付いたら若者に背中を見せる仕事を始めてから(これは比喩ではなく仕事がそうなんですね)20年が経ちました。立派な見本になれた気は全く無いけど、相当に踏みづらく厄介な「踏み台」になってきたような気がします。あれ?でもひょとしたら踏んだことにすら気づかない小さな「踏み台」だったかもしれません。。。どうだろう。

 「オレについて来い!」なんてたぶんこの先の人生でもいちども言うことはないと思います。でも「オレを踏み倒してから行けー!」くらいはそのうち言えるようになるかもしれません。できればその時には、北斗の拳のザコキャラ程度の私ではないことを祈っています。じぶんという存在をわずかばかりでも未来につなげることができるとしたら、そのような生き方でこの先もやっていくしかないのかもしれないですね。

 うん、たぶん、それがアタシのやりたいこと、なんだろうと思います。

 あ、踏み台って言ってもこれ物理的な踏み台って意味じゃないですから。街で会ってもいきなり踏みつけたりしないでね、若い仲間の皆さん!

 ということで久々でした。いつもありがとうございます。

 

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