当然、こうなるよなぁ…
理工的ものづくりでは製品の開発や改良を行います。例えば機械を作ったり、穀物の品種改良をしたり、人間工学に基づく椅子を作製することは理工的ものづくりの典型です。
しかしモノがどんなに優れていても、それが有効活用できる人の手に渡らなかったら製品の価値は生まれず、社会を豊かにすることはできません。
「マーケットデザイン」坂井豊貴
酒を飲みすぎれば二日酔いになる。
金を遣いすぎたら給料日前はカツカツの生活になる。
人気薄の馬を買ったら惨敗した。
悪口を言ったら嫌われる。
何ごとも因果応報の世界においては、原因が結果につながり、結果があらたな原因となる。多くの場合、何かしらの結果が出た時には「当然こうなるよなあ」と思ってしまいます。良い結果が出た場合には明るく、悪い結果が出た時にはため息をつきながら、「ま、そうなるよな」と口に出してしまいます。
問題はその先です。
良い結果が出た場合、気を付けなくてはいけないのは、その成功体験に溺れて再び同じやり方を続けてしまうことです。残念ながら、じぶんは変わっていないとしても、周囲の世界は常に変化を続けています。そんな中で同じやり方にしがみついていたら、じぶんが成功の方程式だと思っていることが間違いなく次の失敗の原因となってしまいます。
逆に悪い結果が出た場合。これも、運が悪かったとか無かったことにしようなんて考えていたら、必ずさらなる悲劇の原因となってしまいます。
何かを作ろうと思ったら、常に、綿密な設計図を作り、試行し改良し、より良いものにブラッシュアップしていく。これが本当に大切だなあ、と50年生きてきて実感しています。この「作る」ってのは形のあるものだけでなく、仕事やイベント、人間関係やじぶんの人生など、単なるモノづくりではなく「目に見えない何か」を作るときにも通じています。
ただこの「作る」という作業もひとりでやっていたら、単なる自己満足や自己完結に終わってしまうことも多いのです。それを回避するにはやっぱり「他者」が必要です。それもじぶんが作ったものを、正当に評価してくれる人(これは悪い評価でも構いません)、誰かにつないでくれる人、さらなる価値を付け加えてくれる人、そしてなによりもそれを笑顔で受け取ってくれる人。そんな「他者」を外部に用意していくことが大切です。要はじぶんにとっての「プロデューサー」のような「他者」がいたら最高なんですね。
このような「他者」を私は「仲間」と呼んでいます。「仲間」というのは、私は「目標や目的を共有し、共に一歩でも前に進む人」というイメージで考えています。この「仲間」が多ければ多いほど、「当然こうなるよな」という結果がプラスの結果になることが多いような気がしています。マイナスでもプラスでもいいのでお互いに意見を交わし合って、ゴールに突き進む。こういう「仲間」のいる生活こそが、「楽しい毎日」につながっていくのかな、と思っています。
さらに面白いのは素晴らしき「仲間」が増えると、「ま、そうなるよな」という笑顔の結末よりもさらに上等な「うわ、こんなことになるんだ!」という予想外のより素晴らしき結果を手にすることもあります。もうそうなったら毎日がきっとワクワクの連続になりますよね。
ちなみに「仲間」に近い言葉に「友だち」があります。この「友だち」という言葉には、私は何となくですが「まったり」とか「暇つぶし」というイメージを持っています(笑)。私としては、今のところあまりこういう時間の過ごし方は求めていないので「友だち」というものを必要としていないのかもしれません。ただ、この「友だち」に関しては「いつか疲れたら帰る家」くらいに考えて大事にはしておかなきゃな、とだけは考えています。いないよりはたぶんいた方が良いのでしょうね。きっと。
話が今日も、ずんずかと違うところに飛んでいっておりますが、最後に「仲間」を作る極意だけ書いておきますね。これは別に私が考えたことではなく、いろいろな本を読んで、様々な経験を積んで、50年かかってたどりついた結論です。
「仲間」を作るための極意はね、、、、
◯相手の話を笑顔で聞くこと、じぶんの夢を語ること
たぶんそれだけだと思います。付け加えるならば、
◯他人の作った「何か」に文句だけを言うような人間にはならず、
じぶんでも「何か」を作るろうともがき続け歩き続けること
それさえできればたぶん次から次へと「仲間」が目の前に現れてくるような気がします。なんだか説教臭くなりましたが、50年も生きていればそんなもんです。これからもたくさんの「仲間」に出会えますように。そして、この文章を読んでくださった皆さんとも素晴らしき「仲間」になれますように。ただそれだけを願いながら今日もPCのキーボートを叩いてます。
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