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ひとりで遊ぶこと、生きていくこと

 競輪は奇妙な遊びである。
 或る側面で見ると、人を買って人に賭(と)し、終わってみると己を買い己に賭しただけの遊びなのである。
 どこまで行っても、”ひとり遊び”なのだ。それがおそらく、”ひとり生きる”勝手を許さない社会もしくは他人との関わりで四苦八苦する私たちの日常と相反しているところに魅力があるのかもしれない。

「夢は枯野をー競輪躁鬱旅行」伊集院静

 暇に飽かして少しだけ文章を書いていたのが、もう1年以上も前。見えない感染症をやり過ごすために、日本中で人々が自宅に引きこもっていた頃です。もちろん私もその1人。積極的に引きこもっておりました。。。

 あまり状況は好転したとも思えず、相変わらず制限の多い世界ですが、それでも何もできない中で、少しずつ何かが変わってきたようなそんな1年半でした。

 半年ほど前に自転車を買いました。もともと車無しの生活でしたので、移動の手段は主に、電車、バス、自転車、徒歩でした。特に自転車なんて近所に買い物に行くくらいしか乗らず、20年前のママチャリをそのまま愛用していたような状況でした。
 そんな中で近所に電動のシェアサイクルが登場しました。試しに乗ってみるとこれが便利便利。10kmくらいの距離なら電車にもバスにも乗らずスイスイスイ。これはいいね!と思わず、マイ電動自転車を購入してしまったのが事の次第です。

 自転車に乗っていると、景色がまるで物語を読むように落ち着いたペースで流れていきます。加速したり減速したり、止まったり。本当に本を読むようにじぶんのペースで物語をたどっていくことができます。読書もそうだけど、時間の進め方が「じぶんひとりのもの」。これはとても快適なことなんですよね。鉄道もバスも、常に乗り物のペースで景色が流れていきます。それに対して自転車や徒歩は景色の流れをじぶんでコントロールができます。徒歩でもいいんだけど、物語のペースがちょっと遅い。自転車の時速20kmのスピードが物語を楽しむのには程良いんだ、ということに気づきました。

 ひとりで自転車に乗っていると色々なことに気づきます。すれ違う人の顔、かお、カオ。流れてくる匂い、香り、空気。それぞれの時間、場所、季節によってすれ違う光景は全て違う。そしてそのすれ違う全ての人やモノや場所にそれぞれの物語が内包されているんですね。あの人はどんな生活をしているのだろう、この公園では誰が語らうのだろう、どこの家の晩ごはんがカレーライスなんだろう。ひとり一人に生活がある、人間関係がある、物語がある。そんなことに気付くのが、とても楽しい時間だと感じられるようになりました。

 ひとりになることで、初めて他者の存在に気づくことができる。そんなことなのかもしれません。私は、もともと群れるのは嫌いだし、友だちを作るのは苦手だし、他人と関わることにも面倒臭さを感じたりするタイプでした。けれどもこの感染症の時代の中で、ひとりになる時間がさらに増えることによって、結果的に他者の存在や、大切な繋がり、誰かと創る物語の素晴らしさに、より一層気づいてきたような気がしています。
 気づいたような気がする、って表現は変ですね。まだまだ何にも気づいていないような感じですね。(笑)

 話は飛びますが、私のような仕事をしていると、日々たくさんの若者との関わりが生まれてきます。若者の中でも、特に10代、特に高校生たち、とたくさん出会いそして別れていきます。今まで何人に出会い、別れてきたのだろう、と考えるとなんとなく背筋がピンと伸びるような気もしますし、なぜか申し訳なさも感じたりします。

 そのような立場にいるので、ここ最近、周囲の大人たち、あるいは若者たち自身から「この1年半で若者たち(私たち)は多くのものを奪われてしまった」という言葉を聞くことが増えています。テレビでも色々な人が言っていますね。

 でもね、一体、何が奪われたのだろう?

 「奪われる」というのは、何か所有している状態で発生する感情です。
 持っているから奪われる。持っていないものは奪えない。
 
 体育祭?文化祭?修学旅行?学習機会?友だちとの楽しい時間?
 本当にこれらのものって若者たちが「すでに持っているもの」なのでしょうか。よく考えてみたらこれらのものって、今までは、単に「大人から与えられたもの」だったのではないでしょうか。つまり、今の状況は何かが「奪われた」のではなく、何かを「与えることができなくなった」という大人側の(あえて言います)勝手な「贈与の機会の喪失」を嘆く言葉なのではないでしょうか。

 あり得たかもしれない楽しい機会、楽しい学校生活、楽しい生活。それらは既にそれを得た人々の「既得権」のような「思い出」の押し付け(と言ったら言いすぎかな?)であり、ひょっとするとこれからそれらを得るかもしれない若者たちにとっては「(誰か他人の)空想の産物」なのかもしれません。勝手に空想上の「楽しかった思い出」を設定して、「奪われた」と相手に言うのはあまりにも独りよがりの身勝手な物言いなんじゃないかな、という気がしています。

 「思い出」という物語は、じぶんひとりの心の中で創り上げるものであって、他者からもらうものでもなく、すでにどこかに存在している所与のものでもありません。私も、今まで出会ってきた若者たちからたくさんの「思い出」をもらっていますが、恐らく彼らは私に「思い出」をプレゼントしようとして何か行動を起こしていたわけではないと思います。若者たちは、じぶんの人生を進むその過程で苦悩したり楽しんだりしているだけで、その過程が彼ら自身の「思い出」になったり、横からそれを眺めたりサポートしている私の「思い出」になったりしているに過ぎないはずです。

 感染症だろうが、他者だろうが、誰かの心の中からは何も奪うことはできません。ましてやもともと無かったものを奪うことは絶対にできません。

 ひとりになる時間がこの1年半で増えたことや、群れから離れて深呼吸をできる時間を得られたことは、プラスに捉えていけたらいいな、と思います。ひとりで遊ぶ時間は、じぶんについて、他者について考える素敵な時間になるはずですから。

 本当は、ひとりになる時間と群れにいる時間が交互にくるのがベストなんですが、この1年半はひとりでいる時間がちょっと長くなってしまいました。それでもそんな時間も、群れがちな日本人、群れがちな若者たち、にとっては貴重な時間だったかもしれません。そろそろ群れに戻ってもいいかな、という気分もありますが、やっぱりもう少しこの静かな時間を楽しみたいな、という気分もあります。

 「奪われた」という感情は、親切でおせっかいな他者から「あなた奪われていますよ」と言われた時に、発生するものです。ひとりで遊んでいれば何も「奪われない」し、他人から何かを「奪うこと」もありません。

 たまにはじぶんだけの物語を創るそんな時間があってもいいんじゃないかな?って思っています。

奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です。
「カリオストロの城」銭形警部

 銭形さんたら。。。言わなきゃ、気づかなかったのに(笑)

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