正解を求めるか、正しさを求めるか
「生徒諸君に寄せる」
[断章一]
この四ヶ年が
わたくしにどんなに楽しかったか
わたくしは毎日を
鳥のやうに教室でうたってくらした
誓って云ふが
わたくしはこの仕事で
疲れをおぼえたことはない
(宮沢賢治 「生徒諸君に寄せる」より 青空文庫から引用)
いいね。宮沢賢治。教員だった賢治が生徒に向けて書こうとして未完に終わった詩の一部分です。興味のある方はご一読を。
昔、20代の頃、個人的に書評なんてものを書いて知人友人に配っていたことがありました。その時も最初は気合を入れて「だ、である」で文章を書いていたんですが、数回発行して気付いたら文体は会話調。今もそれは変わらずで、noteを始めてみたものの最近は肩の力も抜けてきてこんな書き方が性に合うような気がしてきました。授業のような語り方だから、うざったいかもしれませんがお許しを。ということで本日もお付き合いを。
今日は「正解」と「正しさ」の違いについて書いておきます。まずは辞書を引きます。と言っても簡単に見られるいつものweb辞書から。なお「正しさ」は「正しい」という形容詞に「さ」をつけて体言化したものですが、今回は「正解」という体言に合わせて「正しい」も「正しさ」と体言化しておきます。
○せい かい 【正解】
① 正しい解答や解釈。
② 結果的によかったと思われること。 「特急を使ったのは-だった」
○ただし・い 【正しい】
物事のあるべき姿を考え、それに合致しているさまをいう。
(三省堂 大辞林 第三版 weblio辞書より)
これを見て両者の違いがわかった方は終了。この先は読まなくても大丈夫です(笑)
まずは以下の例から考えてみます。実話です。
例①
中学生の頃。足が遅く喘息持ちのキララ(仮)くんは、マラソンの授業ではいつもぶっちぎりの最下位。そんなある日、やってきたのはマラソン大会。喘息気味になりながらも必死で頑張り、圧倒的最下位でゴールしたキララくん。ゴールする彼を待っていたのは、大勢の同級生たちの拍手の嵐。感動の光景でした。
でもこの光景ってキララくん的にどうなんだろう?
例②
大人になったキララくん、とある女子高の文化祭にご招待されて生徒さんのライブを見ることになりました。重そうな機材を女子部員の皆さんが運んでいたのでお手伝いを申し出ました。また、音響も苦労していたのでお手伝いを申し出ました。でも、結果的に優しくやんわりと丁重にお断りされました。
この時のキララくんの行動って正しかったのかな?
ということで、この2つの例から考えてみます。
まずは、例①の場合。同級生の行動はとんでもなく「正解」です。頑張っている人を全力で応援する。何とも美しい光景です。拍手した同級生の心には爽やかな感動が残るでしょう。うーん正解!
でもね、キララくんの心の中は違います。キララくんだって思春期の中学生の男子です。好きな女の子にはカッコいいところを見せたいし、同級生の中でヒーローになりたいという小さな願望だってあります。だからキララくんとしては息も絶え絶えにゴールする姿なんて誰にも見てほしくないのです。かっこ悪いから。つまりそっとしておいてほしいんです。授業だから、体育の教員が怖いから、仕方がなく走っていますが、こんな姿を晒したくない。だから無理かもしれないけれど、こっそりと人目を忍んでゴールしたかったんですね。有り難い「善意」は実は「迷惑」だったりするんです。
というわけで同級生にとっては拍手は「正解」、でもキララくんにとってはみんなの行動は「正しくない」のです。この経験で何かを学んだキララくんは、高校生になると医者から診断書をもらってマラソン大会に出ないという「正解」の技を身につけました。
続いて例②。これは何が「正解」で何が「正しくない」のか。重たいものを持ってよろめく女子を助けようとする気持ちは「正解」です。弱いものには優しくです。音響も苦手そうならば、少しだけ機械をいじれるキララくんが、よりよいライブになるために助けてあげようとするのも「正解」です。でも、この時のキララくんは「正しくない」のです。
なぜか。この文化祭のライブというのは彼女たちが全てじぶん達の手で運営して、じぶん達の手でみんなの演奏を盛り上げたいのです。そしてじぶん達以外は「お客さん」だというおもてなしの気概も持っていたのです。そんな中でお客さんのキララくんが手伝うだなんて「あり得ない」。ましてや「運ぼうか?」なんてナイトな提案も、彼女たちにとってはライブの完成に向けて阻害要因でしかない。だからやっぱりキララくんの心意気は「正解」なんだけど、その場においては「正しくない」行為でした。これは後から大変に反省いたしました。
もう一つだけ、こんどはたとえ話。⇒コメントをつけて見ていきます。
高校の文化祭。クラスでどんな出し物を行うか。昔よく悩みましたよね。あるクラスでも「演劇」か「焼きそば」かで揉めました。仕方が無いから多数決で「演劇」に決定。問題はその後です。何だか「焼きそば組」がつまらなそうです。さあ、そんな時にどうしましょう。
「演劇組」からの発言です。
【解決策①】多数決で決めたんだから、「焼きそば組」はそれに従うべきだ。
⇒これは前半は事実ですから「正解」でも後半は「正しくない」。
【解決策②】多数決で決めたんだから、その意見を尊重しましょう。
⇒これはぎりぎりいい感じ。バランス取れたかな。優等生的。
【解決策③】多数決で決めたけど、「焼きそば組」の皆さんも何かより良くするためのアイデアいただけないですか。
⇒うん、なかなかいい感じ。目配りがきいている。
【解決策④】多数決で決めましたが、本番に向けて不都合があったら「やきそば組」の皆さんも教えて下さい。みんなで直していきましょう。
⇒おお!民主主義だ。正解かつ正しい。焼きそば組も頑張っちゃうね。
【解決策⑤】芝居の中に焼きそばのシーン作るからさあ。
⇒これはウルトラC。何も解決しないね(笑)
この場合の解決策というのは、文化祭後もいかにしてクラスは分断されずに仲良くやっていくかがポイントになります。多数決というのは使い方を誤ると単に分断を生むだけの装置になってしまいます。多数決後に少数派を抑圧すると、色々と不都合がおきます。少数派のお菓子バラマキによる巻き返しとか、徹底的なサボタージュとか。ひどい場合には、演劇の横で勝手に焼きそばを焼きはじめる。そこまで行かなくても上演中にペヤングの立売りをする。そんな悲劇が想定されるわけですね。それだけは避けたい。だから仲良くやっていきたいので知恵を絞るのです。
これはまあ、学校のおとぎ話ですが、実際には職場や政治・社会の現場にも見られる光景ですよね。誰もが経験あると思います。
「正解」というのは多くの人が納得すること、あるいは納得していること。あるいは何らかのエビデンスに裏打ちされた明確な「こたえ」です。それは誰にとっても「正解」で反論の余地はありません。それに対して「正しさ」とは、時代や場所、雰囲気、気持ちなどによって常に変化するものです。つまり誤解を恐れずに言えば「正しさ」は主観的、あるいは場当たり的なものになります。マラソンにおいてもキララくんは「ほっといてくれ!」って思っていますが、人によっては「みんなが応援してくれるから頑張ろう!」って感じる場合もあります。最後まで走りきった人は頑張った人!ってのは「正解」ですが、拍手がいるかどうかはその状況の中で「正しくなったり正しくなくなったり」するのです。そう理解しておくのが、いいのかな、と思います。
最近はこの「正解」と「正しさ」が混同されている議論をよく見かけます。ある職業の定年の延長なんかがここのところ話題になっています。高齢化社会において、定年が延長されることは高齢者の生活面や生きがいの面で「正解」です。しかし「誰かは延長されるのに誰かはされない」とか「そもそも誰がそれを決めるのか」については人それぞれに「正しい」と思うことは違います。オレが正しいと思うんだから正解だ!とか、これは正解なんだから誰もが納得するだろう、なんてのは色々とこんがらかっていて、あまり説得力を持ちません。
「正しさ」は人それぞれ。その場その場で「正しさ」を判断するのは、じぶん自身の知識と経験に裏打ちされた「わたし自身」です。いやいや直感です!という人もいるかもしれないけど「直感」とか「カン」というのも実は今まで得た知識や経験に裏付けられていることが多いのです。まずはそのことを理解して生きていくのがいいのかな、と思います。「正しさ」の根拠はわたし自身、その発想こそが世の中から不要な対立や争いをなくす第一歩なのかなと私は考えています。
「正解」は「正しさ」ではありません。己の「正しさ」を他者にぶつける時にはよーく注意いたしましょう。
ということで今日はここまで。
キーンコーンカーンコーン。
終わります。号令は要りません。嫌いなのでね。
片付いた方から休み時間にしてください。
あ、日直の方は黒板消しといてね(笑)
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