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どれだけ削れるか?

「よくああ無造作に鑿(のみ)を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。

「夢十夜 第六夜」 夏目漱石

 しばらく投稿ができずにおりました。6月から少しずつ仕事も始まり普通の生活が戻ってきたような感じです。もひとつ引用を。

私は大理石の中に天使を見た。そして天使を自由にするために彫ったのだ。
I saw the angel in the marble and carved until I set him free. 

美は、余分なものの浄化である。
Beauty is the purgation of superfluities.

ミケランジェロの言葉より


 様々なものが奪われて失われたような季節、3月、4月、5月を過ごしてきました。6月は少し何かを取り戻しはじめたような気もしましたが、7月になってみたらそれもまた幻か?というような状況になっています。

 そんな季節の中、私は何を考えてきたのでしょう。いま振り返ってみると、それは「何を削るのか、何をどれだけ削れるのか」だったような気がします。

 50年近くも生きてきたので、ここ数年、身にまとっているものが少し重たくなってきたような気がしていました。家族については、子どももおらずペットもおらず、愉快な連れ合いがたったひとりいるだけなのでそんなに重たくもないのですが、仕事やら人間関係やら持っているものやらはいろいろと積み重なってきていたので、それを削るのにちょうどよい季節だったのかもしれません。

 本を300冊捨て、大量の着なくなった服を捨て、人間関係をお休みし、職場にも行かず、全てをリセット。毎日6時に起きて午前中は体操と散歩と買い物。12時に昼食。14時から昼寝。晩ご飯を作り23時には寝る。とてもシンプルな生活の中でいろいろなものが削ぎ落とされてちょっと身軽になったような気がします。オンライン飲み会なんてものには近寄らず、人との繋がりはSNSだけ。Facebookだけは活発で久々の方々と久々にやり取りできたのはちょっと幸せでした。

 本来ならば年度末や年度初めは、私は人を相手にする仕事をしているので大忙し。色々なまとめをし準備をし、ライブも多く、飲み会も多い。例年なら20連勤、1週間連続飲み会、ライブが週に1本!なんて言っている時期ですが、今年はただただ開店休業状態。おかげで自由な時間をたくさん手に入れました。何かに怯える日々というよりは、何かとてもとても自由でストレスのない日々になりました。

 そんな中で色々なものが削ぎ落とされ、その結果、その中にある軸というか核というものが(本質というものなんですかなぁ)たくさん見えてきました。まるで着膨れして身動きできなくなっていた「わたし」から、自然に「じぶん」というものが彫り出されてきたような感覚を味わっていました。
あ、ここで言う「わたし」というのは「公」から生まれる「私」のようなもので社会的に作られてきた「存在」のような感じかな。「じぶん」ってのはよくわかりませんが「いまここにいるオレ」のようなものだと思います。

 色々なものを削ぎ落としてみて分かったことがあります。

 もともと電話やメールが好きでは無かったのですが、やっぱりわたしは対面型コミュニケーションが好きだったということ(だからオンライン〇〇なんてものがどうも苦手です)。お酒が好きなのではなく、外食したり居酒屋という場所で、人が作ったものを食べ、人の声を聞くのが好きだったということ。思ったよりも疲れ果てていたということ、そしてそれに伴って体調が悪かったのだということ。そしてそして何よりも、日常的に会話をする友人というのは5人くらいしかいなかったということ(笑)

 友人がほとんどいないということに気付いたのは、とても良かったことかもしれません。薄々は気付いていましたが、本当に実感しました。幸いにして知人は多い方だと思うし、その方々に日々たくさん助けてもらっています。それはとても幸せなことでこれからも皆さんとは緩やかに繋がっていきたいと思うし、その方が楽しい人生になることは間違いがないのです。

 でもね、普段は1人で、あるいは2人でいいのかな。多くても3〜4人でいいのかな。静かな環境にいてじっと力をたくわえているからこそ、ふだん身を置く喧騒の中でも歩いていけるような気がします。1日に数分、人と話をする。散歩をする。本を読む。映画を見る。音楽を聞く。料理をする。その繰り返しだけで、なんて人生は素晴らしく、心も体もストレスなく軽く、頭からは様々な発想が飛び出してくることか。そんなことにこの数ヶ月で気付かされたような気がします。

 色々なものを削ぎ落としたことによって、視界はクリアになって素敵なものがより多く見えてくるようになりました。耳の中の汚れも取れて、色々な音が聞こえるようになりました。もともと軽い頭ではありましたが、その頭にあったわずかな悩みも消えていき、少しは早く回転するようになったかも。身体の節々の痛みは減り、頭以上に身体はとても軽くなりました。

 covid-19に支配されたこの数カ月間においては「奪われる」「失われる」という言葉が盛んに言われ、誰もがじぶんから奪われたものや誰かが失ったものに対して敏感になってきています。オリンピック、甲子園、学校、仕事、人間関係、お金…あれがないこれがないと大騒ぎです。けれどもひょっとしたらこの季節は、本質を見つけるための削ぎ落としの期間だったのかもしれません。漱石が言うところの「ノミとツチ」でただの木の中から仏像を掘り出す作業だったのかもしれません。ミケランジェロが言うところ天使を自由にするための、あるいは余分なものを捨てて美を見つける作業だったのかもしれません。

 削ってみれば自然に中身が見えてくる。じぶんや世界の本質が見えてくる。

 とりあえず手を動かして。いらないものを捨てて。そうすれば自然と本質が見えてくるかもしれない。
 
 この季節は「喪失」ではなく「発見」の季節だと考える。そう考えるだけで、この3月以降の数ヶ月だって、とても良い季節だったと振り返ることができるのかもしれませんね。少なくとも私はそう考えていますし、どうやら私の周りの素敵な数少ない(笑)友人たち、そしてたくさんの仲間たちも、現実に翻弄されながらも何か「本質」を掘り出し始めているようです。その姿を見ているだけでも、削ることにも本当に意味があるんだなと独りごちているような日々です。まだまだ私たちは大丈夫。いくらでも美しい何かが彫り出されるのを待っているはずです。

 これからも続くであろう削ぎ落としていく日々。まだまだ進んでいけるような気がします。うん、大丈夫。ただね、ひとつだけ残念なのは、ここ数年でいきなり増え始めた体重だけは削ぎ落とすことができなかったこと。私の中の「スリムな私」はまだ外には出てきたくないようです。がっくり。。。


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