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「学校の勉強は必要か」「必要に決まってるだろバカ」
ちょっと前だが、悲しいことがあった。「学校の勉強は必要なのか」という問いが大人からあったのだ。
小学生ぐらいからの質問であればキチンと回答するが、中・高生ぐらいなら「必要に決まってるだろバカ、勉強しろ」と言っている。それが25歳を超えた社会人からの質問なので参ってしまい、とりあえず詳しく話を聞いてみた。
自身は私大文系出身で高校数学も化学も物理も勉強していないが社会で生きていけている。専攻した歴史の知識も社会人になって使っていない。なので子どもに「学校の勉強の意味はあるのか?」と聞かれたら「ない」と言う、と。
「そんなんだからテメェはその程度の仕事しか任せれねぇんだバカ」、とまでは言わなかったが、最近は言ってやればよかったと後悔している。「学校の勉強は必要」でなく「学校の勉強も必要」だ。お前にはそもそも学校の勉強だけでなく、仕事の勉強も足りていない。
確かに大学ぐらい専攻科目を狭めた専門的な知識を社会人になっても使い続ける人は多くないかもしれない。ただ、高校レベルの知識は教養である。そもそも文系・理系の話から気に食わなくて、文系だったとしても高校数学ぐらいは知っていて当たり前だし、理系だから歴史を知らなくて良いはずがない。
たしか「じゃぁ具体的に知識を使用する場面を言ってみろ」と言われたのだが、違うんだよな。そういう話ではなく、「学校の勉強が必要ない」と思っていること自体がマズイんだよ。
もちろん、世の社会人が全員教養あるかといえばそうではない。筆者も多くの知識がもはやアヤフヤで、歴史や文学に至っては小学生にも敵わないかもしれない。だが、「学校の勉強が必要ない」なんてことは絶対に言わない。
また、履き違えてもらいたくないのが「学校での勉強が必要だ」とは言っていないことだ。別に勉強は学校でなくてもできるし、学校の勉強以外の勉強も生きていくためには必要だ。しかし、くどいようだが「学校の勉強ぐらいしろ」。
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あぁ。悩ましいのが、この手の話のときは「具体的な事例を出せ」という話になり、例外的な事象が容易に想像できることから、結局「自分にはいらない」という話になるところだ。
さらに「中卒、高卒だからドウコウ」や「普通科だから、専門学科だからドウコウ」という話もここでは筋違いだ。教養という単語も使ったが、高等教育自体がここ100年程度の制度なので、「学校の勉強」も移り変わるものである。終始言及しているのは、勉強の中身ではなくスタンスの話である。
筆者の説明が足りていないのが理由だと理解しつつ、そもそも『勉強』が『必要』という問い自体がナンセンスなのだと感じている。勉強は必要・不必要の軸には乗っていないのだ。
筆者は歳を重ねるたびに学校の勉強の大切さを認識し、自身の教養の無さに愕然している。一方、歳を重ねてもそう思わない人間もいるようだ。うーむ、筆者の教養の無さ以上に、この状況は絶望的に感じた。冒頭の言葉には、深く、深く、悩まされている。
あぁクソ、こんちくしょう。彼らにどう説明したらいいものだろうか。
最近の悩みである。
記事:アカ ヨシロウ
編集:香山由奈
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