運動について
男の仕事場はリビングルームの一角にある。
大きなデスクの上にはモニターが3台、ノートパソ コンが2台。
デスクの前には長時間座っても体が痛くならない、座り心地のよいオフィスチェアがある。
男はめったにその場を動かない。仕事から手が離せないからだ。
コーヒーを淹れる時と用を足 す時以外はその場を動かず、目の前の仕事に集中する。
集中力が切れる瞬間もある。そういう 時、男はオフィスチェアに座ったままスマートフォンを手に取り、SNSや動画を見始める。
大して面 白くもなさそうな表情で画面を見つめている。そして途中で我に返ったように、仕事に戻る。
これ を朝の8時45分〜12時、13時〜17時半、そこから好きなだけ残業が始まり、下手すると24時を過ぎるまで繰り返す。
その間、コーヒーを淹れるか用を足すか以外は、男はオフィスチェアに座ったままである。その場から離れて動き回ることはない。
いつの日か男は「運動不足の自覚はある」と言っていた。
一時期は、重い腰を上げてジムに 通ったりランニングをしたりしたものだが、男はどうしても目の前の仕事を優先してしまう。
当たり前のことだが、男は毎年歳をとる。
日々の運動不足と加齢が男の腹囲を少しずつ大きくしている。
男はそれを気にするが、それでもやっぱり仕事に意識が向いてしまう。
そんな男が誰に諭されるでもなく、唯一立ち上がり、なんなら歩く儀式がある。それが立ち読みだ。
決まった曜日になると、男は唐突に立ち上がり、真面目な面持ちで玄関を出る。
徒歩6分ほどの距離をてくてく歩く。
コンビニに着くと、店員には一瞥もくれずに雑誌コーナーに立ち寄り、立ち 読み可能な漫画を1つずつ丁寧に読んでいく。それはもう、恐ろしく、丁寧に。
オフィスチェアに座ったままスマートフォンを手に取り、SNSや動画を流し見している時の大して 面白くもなさそうな顔とは裏腹に、男は立ち読みこそが生き甲斐であり、なんなら仕事の一環であ るとでもいうような真面目な顔で黙々と読み込んでいる。
しばらくすると、儀式を終えた男は特別満足げな顔をするでもなく、いたって平常心のままコンビニを出る。
コンビニに並ぶ他の商材や店員、他の客に一瞥もくれず出ていく姿をみていると、男の 目には読みたい漫画雑誌以外何も映っていないのだとわかる。
男は再び徒歩6分ほどの距離をてくてく歩き、自宅に戻ると、再びオフィスチェアに座りこんで仕事を始めた。
男の唯一の運動であった。
記事:アカ ヨシロウ
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