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パルデアの歴史⑤ 生態系と量子コンピュータと自由意志 結晶体のモチーフ 後編

「自由」と「変わること」の物語

 ポケットモンスターと言えば「進化」することが特徴であるが、散々つっこまれてきたように、変態とか成長に近い。尻尾を噛まれたヤドランに至っては「事故」に近いのではないか?まあ、それらが多発し生存競争に寄与するのであれば本来の意味での進化と言えなくもないのかもしれないが。だがパラドックスポケモンのように、近年のシリーズでは本来の意味での適応としての進化があることも大々的に扱われ、引いては生態系と結びつけて表現されることが増えてきた。そしてパルデアの物語ではポケモンに関わる変化の根源としての結晶体とテラパゴスが登場したものの、いまだそれらが何を表していたかはよくわからない。博士AIがポケモンを含めた主人公たちを「自由な冒険者」と呼んだ真意とは何か、地中の亀との小競り合いの何がそこまで重要だったのか。ここでは引き続き、結晶体の様々なモチーフから、彼らがなんであったかを考えていく。

絶望に至る「ラプラスの魔物の血肉」としての結晶体

博士AIの中央処理ユニットはどこ?

 オーリムAIおよびフトゥーAI(以降まとめて博士AIと表記)人工知能の演算はどこで行われていたのだろうか。彼らの構造はいまいちわからない。
 博士AIは楽園防衛プログラムに「書き換えられた」ので、つまり彼らを書き換えた存在が別にいる。その存在の名をひとまずゼロラボのコンピュータとする。

 ゼロラボのコンピュータは博士AIが一度主人公に敗北したにも関わらずタイムマシンの停止を拒んだが、その際に博士AIが「博士はどうしても楽園防衛プログラムを止めたくないのか」と推測的な発言したことから、博士AIとゼロラボのコンピュータは電子的な繋がりによって動作の意図までの確認は出来ず、少なくとも普段の思考回路はほぼ分断された別個の存在ということなのだろう。

 そしてゼロゲートからゼロラボ内までを見渡すと、まずゼロゲートには入って左奥に恐らく施設全体の主電源の巨大なブレーカがある。
他に六基ある計算機らしきものは、四基しか稼働していないが第一から第四までの観測ユニットからのデータを計算しているように見え、この分だとゼロラボはこの施設からは独立している。いずれの計算機も古めかしく、これでは高度なAIは演算不可能である。そして観測ユニットもゼロゲートを主機とした端末でしかなく、これらは恐らく近代以降の研究観測用でしかない。
故に結局のところ、まともにタイムマシンや高度AIを管理できそうなのは、最終決戦の際に露出したタイムマシンの部屋の巨大なスーパーコンピュータを積み上げたような構造物くらいしかない。

 一般的なスパコンは見た目からして「超並列マシン」と言われるように、多くのコンピュータを並列に接続する。空調の管理された巨大な部屋に効率的に立方体の同型のコンピュータが並んでいるイメージであり、今現在我々の世界で最速を争うスパコンはこの形式を取る。

 だがゼロラボコンピュータは上部にあるタイムマシンの中央を中心とした放射状の形を取っており、スパコンにしては効率が悪そうに見える。強いて言えば、我々の世界でこの形をとるのは量子コンピュータである。確かにそういった観点から見ると、物語の結末や博士の目的と(少なくとも2023年時点で)量子コンピュータの得意とされる領域が合致するため、それらしく見えてくる。

 現行の量子コンピュータの計算はありとあらゆるノイズに弱いため、電磁気的なノイズから保護され、吊り下げることで物理的振動を排すなど、極力外部からの影響への対策を行っている。その意味ではゼロラボコンピュータは床からから生えているので、仮にこれが量子コンピュータ的な演算装置なのであれば見えている部分全体が本体とは考えにくい。恐らくその本体であるいわゆる量子処理ユニットにあたるプロセッサは内部中央に様々な防護の上格納されていると考えられる。
 まあそもそも量子云々でなくとも精密機器であるコンピュータの至近距離でだいもんじだの10まんボルトだのハイドロポンプだのじしんだのをバカスカ放つ輩がいても稼働していたので、防護は相当なものなのだろう。

 そしてここまで巨大な中央コンピュータがあるのであれば、その能力のいくらかを博士AIの演算に割き、ある程度の機能を持たされつつもあくまでも端末である博士AIのロボットを遠隔操作していたとひとまず考えるべきだろう。(ただし、博士AIが消えゆく直前にエネルギーを充填されまくったということは「伏線」と予想でき、あの時点で生命を得て、転送先でも生きていた可能性には留意せねばならない)

結晶体の異常鏡像と光量子コンピュータ

 結晶体が何故量子的なコンピュータに寄与するのか、仮定から間違っていたら何にもならない考えではあるが、以前にも言及した結晶体に映る鏡像のようなものの異常さにとっかかりがあるのではないか。ここまで不可思議ながら何も語られないので何とでも言えるのだが、見た目の事象から言えば、鏡であれば映るはずのない主人公の背中が映るので、鏡面反射ではない。結晶体には三次元像が反転せずに映し出されているとしか言えない。

 鏡が三次元の光を二次元に写しとるように三次元の像が四次元的な鏡面反射に映しとられているようにも見える。そして恐らく結晶体に映った像は他の結晶体には映らない。似たようなものとして我々の世界で言えば負の屈折率を持つ「メタマテリアル」などが研究途上の物質ではあるが、この現象はそれよりも圧倒的に不可思議なものである。そこに届くはずのない光による像が映ることは、胡蝶の夢ではないがその結晶体の中の世界もまた本物の世界なのではないかという気にさせられる。

 その正体と原理はこの場ではともかくとして、工学的にはなかなか凄そうである。量子コンピュータ周りの技術で言えば、結晶体は光の一部を直進させ、一部は前後関係を変えないまま像を結ぶので、ビームスプリッターとすればレーザー光操作技術の幅が段違いに広がる(そもそも出てきた光線は本当に「直進」しているのか?)。
 また、結晶体をいくつかに割ってよく磨き、レーザー発振機の背後に置いたら、各結晶体からは恐らく誤差と遅延がゼロの同一のレーザー光が出てくるのではないか。これもまた誤りの少ないレーザーを用いた光量子コンピュータ制御に資するものになる可能性がある。この線から考えると、大穴のそこら中にあるガスボンベは、ガスレーザー光発振機に用いられるある種の混合ガスであるとも考えられる。
 あるいは結晶体それ自体が量子的で、例えば非因果的領域であるエリアゼロに限り固体で安定しているのであれば、この地自体が大量の量子ビット源という身も蓋もないチート状態と言える。いずれにせよ「根源性」が保たれたままそこにある物質というのは、素粒子分野の工学においては非常に高い価値を持つと言ってよいだろう。

 ただこれらによってゼロラボのコンピュータが量子コンピュータ的であるというには、その見た目の形状に仮説を乗せたものでしかなく、どれもそれっぽいというだけに留まる。しかし前述の通り博士の目的とそのタイムマシンとの関係性から見た方がよりそれらしく見えてくる。

自由な冒険者たちに敗北する「因果の巡回セールスマン問題」計算装置

 戦闘プログラムや楽園防衛プログラムとしての博士AIは何やら自分が負けるはずはないという風に自信満々であった。スポーツ漫画で噛ませ犬になりがちな頭脳系キャラのようなセリフをいくつか発していたが、文字通り往生際の悪い泣きの再戦では「もはや計算など要らないだろそんなの」と言われるレベルの禁じ手であるモンスターボールのロックまで行ったのに、残念ながら十代前半の子どもに負けた。
 パルデア半島中央の大部分を長年占拠し、現世代の人類の全てを遥かに超える科学技術と資源を投入してこの結果では、投資効率としては最悪を極める。一体何を計算しての自信で、何故敗北したのだろうか。

 そのポイントはゼロラボのコンピュータがタイムマシンの直下にあったことであると思う。この二つは別に同室にある必要はないので、何らかの目的のために二つが合わさった構成になっている。タイムマシン自体は時空の物理学的な隙を突いたり、こじ開けたりする道具に近いので、それ自体にここまで莫大なコンピューティングは不要である。そこで、博士の目的に合いつつ量子コンピュータの強みとされるところからその意図を推測するならば「目的の世界線の手繰り寄せ」ではないか。つまり、無秩序に開いていたと思われるウルトラホールではなく、博士の目的のポケモンの存在する世界を計算し、指定して接続するための計算力が必要だった故にこのようなコンピュータが設置されているのではないかという推測である。

 このことは、博士AIが主人公に連絡をしてきたことが真実味を強める。それというのも、現行のスーパーコンピュータが苦手とするが量子コンピュータが得意であるとされる、「巡回セールスマン問題」が関わってくる。この問題は、向かわねばならない都市が複数あるセールスマンが最も早く回り切るにはどのようなルートを通ればいいか?というものであり、一見大したことはなさそうだが、数学的には「多項式時間で解けそうにない」という「NP困難」と呼ばれる問題の一つになる。その意味は、「とても複雑で莫大な計算量をこなさなくてはならない問題なのに、一個一個計算せざるを得ない性質であるので、スパコンでも解くのにとんでもない時間がかかる」問題のことである。ここで言うとんでもない時間とはスパコンで何万年とか何億年である。

 そして、これはまさに「レジェンドルート」、「チャンピオンロード」、「スターダスト★ストリート」を回ってゆく主人公らのそれであり、博士AIが監視カメラもなく不自然に主人公の行先を把握していたのは、その主人公が取る巡回ルートを量子的手法で演算し、例えば主人公がぬしポケモンを倒す毎の時間と空間を予測、指定して連絡をしていたからだとすれば辻褄が合い、これは因果律の演算である。
ちなみにこの仮説を取るならば、ほぼ全ての主人公はあっちへ行ったりこっちへ行ったりと、その軌道を演算しようとすると「NP困難」の上のクラスである「NP完全」に余裕で達するであろう「きまぐれ右往左往ポケモントレーナー問題」であるので、博士の作り上げたコンピュータは本当に凄まじいものである。だが博士が生み出したコンピュータは、まさに「ラプラスの魔物」と言ってよい神の領域に入った性能であるようで、こんなものは序の口である。

 まとめると、タイムマシンと量子コンピュータのようなものがセットになっている理由とは、両世界のヘザーが目撃し、両博士が望んだ姿のパラドックスポケモンが現れる世界線が結んだ、因果の組み合わせ最適解の時間軸(=別の世界)と時空座標を常に得続け、これをタイムマシンに指示する必要のために、ゼロラボのコンピュータは量子コンピュータのような形式をとっているのではないか、ということである。惑星自体も公転し、太陽系自体としては常に銀河系内を移動しているわけで、時間だけでなく空間の計算もしなくてはならない。そしてその時空間座標にボール程度を送る程度の干渉は可能であるということである。これは「パルデアの歴史②」で立てた、楽園防衛プログラムはある程度の範囲で都合の良い因果を選択できるのではないか?という仮説をやや強化する。

図1.簡略化し過ぎて困難さが伝わらないパラドックスポケモンが出現する世界線を探す様子

 そのように考えると、確かに我々の世界のいまだ原始的な量子コンピュータなど軽々と超えた、結晶体の力によって無限に近い世界線すら演算するコンピュータの戦闘プログラムであれば、10歳もそこそこの主人公の6匹に制限された手持ちから繰り出される手など些事も些事であり、囲碁やチェスより圧倒的に手数の少ないポケモン勝負で負けるはずなどない。ないのだが、負けてしまった。

 それがお約束と言えばそれはそうである。だがこの物語においてはこのお約束の設えを「宝」の正体の一つから描こうとしているように見える。
一つは再びの主人公の「救世主」性である。レジェンズアルセウスで示されたように、この物語のシリーズでは、主人公たちはアルセウスのような根源的存在や我々の宇宙と接続されている構造を暗に受け入れている。そういったギミックは存在しているように見える。
 だが、主人公たちが持つ因果律の帝王と成り果てた博士AIに対抗する力とは無味乾燥なチート能力ではない。因果律に対抗し得る力とは、博士AIが羨望した「自由」である。実際のところ、物質の延長線上の存在でしかない我々は本当に絶対過去と絶対未来の因果から解放されて自由意志を持っているのか?というのは、我々の世界でいまだ答えの出ない重大な問題である。

 確かに例え「なんでも捕まえちまう」と言われ、ポケモンに懐かれ、とんとん拍子にチャンピオンになる異常な存在の主人公であっても、重力に制限された人間は地べたを這いずり回るしかないので、彼および彼女がパルデア中を辿るルート自体の予測はゼロラボコンピュータの得意とするところである。確かにほぼ全てのものは因果の中にある。
 だがこの世に本当に「自由」を掴む力があるならば、博士AIの把握する絶対過去と絶対未来の因果は、その時点での入力と出力でしかなくなる。そして主人公たちは、現に恐らく博士が「キミたちでは不可能ダ」と結論付けた因果律を彼らの力で打ち負かしたのである。それが絆であり、自由であり、それこそが「宝」であると証明してみせたのである。

「結晶”洞”の帝王」からのボン・ボヤージュ!

 だとすれば、最後の博士AIの「さらばだ、自由な冒険者たちよ」という言葉は、結晶体をこれ程までに駆使しても子どもには不完全な楽園しか用意ができなかったいわゆる「毒親」としての博士からの別れの言葉とも捉えられる。

 つまり博士はペパーやパートナーという何よりも大事な「いま・ここ」を直視できずに結晶体に囲まれた「非時間的領域」に籠りながら、過去と未来の「楽園」に家族の幸せを夢見てしまった弱々しい、いわゆる毒親であったと言える。Switch版二作目だからなのか、劇場版二作目の「結晶」塔の帝王のオマージュとみてよいだろう。確かに、無限に近い因果律を手繰っていれば、アローラ地方の主人公が垣間見たそれのように、パルデアやこの惑星の様々な悲惨な末路を見たことだろう。だが、作り出したタイムマシンとSF的コンピュータによる楽園は、今現在の息子とその友人を傷付けたばかりか、生態系というこれからの子どもたちの人生の基盤すら損なうものだった。

 しかし4人の子供たちはパルデアのモデルとなったスペインらしいモチーフである聖書において、子どもが大人になるように人が人と成った「失楽園」を無意識に試み、グレープアカデミーやオレンジアカデミーという「禁断の果実」を冠する学舎で絆を深めた。そしてゼロラボのコンピュータが恐らく簡単に演算できた三つの「大穴への巡礼路」を行く中で、自由という因果律を打ち破れる可能性のある宝を手にし、星のような結晶体の粒子の降る大穴という「コンポステラ」へ辿り着き、楽園を擁する神などではなかった父母と別れ、家路に着く。そしてシリーズ恒例の「スタンド・バイ・ミー」の構図で締められる。なんとCelestial, oh..である。

 もちろん、この世は聖書の世界ではないのだから、楽園から出て行くということは、孤独な一人の人間となり、時には立ち上がれぬ程に傷付いたり、時には罪を背負っていくことを意味する。「スタンド・バイ・ミー」の登場人物の仲間たちも小さな冒険物語の終わりの後、抗い難い困難に出遭っていったことが分かる。物語だけではなく、それは主人公と行動を共にした現実の我々だって例に漏れない。

 だから、自由な旅人「たち」というのは、博士AIが見守ってきた無限に近い因果律のルートでゼロラボに辿り着く全てのプレイヤー全員にもかかっているのだろう。
 そしてその最後の言葉が、主人公たちが「自由という宝」の存在を証明したことに応える、「ボン・ボヤージュ!」つまり「よい旅路を!」である。
人生は冷え固まった因果律などではなく、自由な旅路なのだと言ってくれたのだ。 そして同時に、結晶体のエネルギーが強く干渉したのかコンピュータである博士AI自身が強い因果的決定論を否定し、最後の最後に自由を得ているということにもなる。SF的ロックンロールである。
 これからを生きていく子どもらへの花向けとして、これ以上ないあまりにも爽やかで力強い別れの言葉ではないか。(なんだこれ、完璧か?)

 このように、シリーズのテーマもしっかりと描きながら、モデルとなったイベリア半島の敬虔な人々が悩み、傷付き、現在に至った歴史と文化への敬意も完全に融合させており、練り上げが極まった結びであった。
 どんなに小さなことからも魔法を見つけることが大事なことなんだ、とエンディングを飾るエド・シーランさんの歌がまさにテラスタルのように輝くのである。(もう浸るしかないだろこんなの…)

 以上、結晶体の利用のモチーフとしての話だったのが、考えるほどにシナリオが素晴らしく、後半はだいぶ個人的な見立てと物語の感想に転んでしまった。
 今更ながら話を戻すと、量子コンピュータ自体が日の浅い技術であることと、博士は用途を間違えてしまっていたが別に量子コンピュータ自体は絶望の道具ではないということから、そこまではっきりとその輪郭を前面に出してきてはいないものと思われる。しかしゼロラボのコンピュータという存在がテーマに直結しているような物語の構造からも、根源的で量子的な性質を持つ結晶体が危険なだけではなく技術的に有用な資源であるという側面を描くものとして考えてよいだろう。

希望に至る「秘宝」としての結晶体

「帝国」がその果てで見逃したもの

 欧州諸国で初めてガラパゴス諸島に達したのは16世紀のスペイン帝国の司教であるという。スペイン帝国が得た領土のほぼ西の果てである。現地民たちは既に知っていた島であり、布教の最中に通ったのだという。そもそも目的が異なるので仕方がないのだが、彼らは島のゾウガメや他の動物たちの重要性には気付かなかった。この地の動物たちの重要性が説かれ、生物の環境への適応の現象が理論化されるには、19世紀のチャールズ・ダーウィンの「種の起源」まで待たなくてはならない。スペイン帝国はこれに立ち合うことなく、財政悪化の悪化とその混乱から、衰退し滅亡してしまう。

 そしてポケモン世界においての中世のパルデア人は大航海時代ではなく、この大穴の最深部にあるという「財宝伝説」を信じて大探索時代に入った。七つの海を股にかける現実のスペイン人たちに比べると正直かなり陰気臭いが、北東部に残る海戦の跡や、カロス兵として用いられていたキリキザンたちの存在からしても、恐らくガラルやカロスとの戦争は熾烈を極め、外洋に出る暇などなかったのであろう。そしてテラパゴスに出会うこともなく、恐らく結晶体を見ることもないまま、滅亡してしまう。
 そのように外と内の全く正反対の方向へ向かったスペイン帝国とパルデア帝国だが、その果てで彼らが見逃したとても大事なものはとても似ているのである。

 そもそも「帝国」というのは、軍事力や経済力、他者を征服できる力によって、他国や他民族を従えた国家の形態とされる。また、例えその対象が帝国を名乗らなくても、中心となる人々の利益のために周辺の人々の自由を制限するという事象一般を指す際にも使われる言葉でもあり、その他者に有無を言わせない強さのある響きからカッコよいものとして扱われることもあるが、基本的にあまりいい意味では使われない。

 そしてダーウィンの「進化論」は、帝国が他国を支配することの正当化の材料にされたことがある。端的に言えば「ダーウィンの言うように適者生存がこの世の理ならば、強い国が他の国を支配するのは自然の生態系と同じだ、つまり正しいことだ」という主張があったのである。確かに、似ていると言える箇所は存在するが、これを受け入れてしまえば、強者であれば弱者を搾取してよいと認めてしまうことになり、注意深く扱わなければならない論理である。実際にもはや数などわからない程の多くの人間がこの帝国の興亡という巨大な出来事の犠牲になっている。

 とはいっても、往時の帝国についてその形態の始まりが生存戦略であったことも否定し切れない事実である。変わることが出来なければ国家も民族も淘汰されるわけで、何百年も彼らの文化や制度は時代への「適応」に成功して生き残った。それは庇護すべき子どもたちを守り、辱めを受けさせないようにしてこれたということでもある。インターネットや全球規模の国際会議もない時代に「やらねばやられる」という疑心暗鬼は動物である以上、帝国が形成されることも仕方がなかったというのは全く否定できない。しかし彼らのほとんどが消え去り多くの禍根が残った現代であれば、人間としてその道を通らねばならなかったかもしれないが、そのやり方は恐らく正しくはなかったし、それ故に多くの人間を幸せにせず消えていったということがわかる。

 そして苛烈な植民地収奪も空しく資金繰りに苦しみ、他の強国の誰にも汚されないカトリック世界を夢見たスペイン帝国の結末と同じく、周辺国に対して「自由」を行使する源としての財宝を求めたパルデア帝国と皇帝の願いは届かずに滅亡を迎える。彼らの採った帝国という生存政略は、あるいは彼ら自身を変えられたかもしれない「秘宝」の本質を解き明かす前に、長い伝統を持ちながら淘汰されてしまったのである。

在来種と外来種の自由

 ポケモンたちにしても、少なくともスカーレットとバイオレットの二つの世界で生態系が異なる。似た二つの世界ではどこかの時点から様相が変わり、片方の世界でポケモンAがポケモンBを駆逐し、もう片方の世界ではそうではなかったという事象が暗に描かれる。駆逐されたポケモンBの子孫たちはその因果律の未来において少なくとも居場所を失ってしまったという、自由で残酷なバックグラウンドである。

 とある種のそれなりに持ち堪えた生存戦略が、多様化の中で現れる新たな生存競争に敗北する。この点は確かに帝国の興亡に似ている。自分の居場所を守り切れる適応を行い「自由」を勝ち取った種がそこに生きているのである。そして、現在スカーレットとバイオレットの両世界に生き残ったものたちも、過去と未来から侵入させられた「時間外来種」とでもいうべきパラドックスポケモンに脅かされている。

 生前の博士は自らの願望のために事を引き起こしながら「それも生態系だ」と言い放ったが、それはエリアゼロの似非の楽園に籠りいつしか自分を神か何かと錯覚してしまった者の発言である。生態系という包括的に連綿と続くシステムの変化の中で関係し合って生きてきた者たちは、その辻褄が合うから次の世代に繋がることが出来る。誰もが知る通り、システムというものは構成要素を生かし、構成要素に生かされれる絶妙なバランスで成立する。一度崩れたシステムが元に戻ったり、一度システムから外れた構成要素が系外で生き延びることは一般的には難しい。

 そしてこれは、侵略を受けた形となる現在来種だけではなくパラドックスポケモン側も同じである。突然違う時空に呼び出され、「私の楽園のために生きていけ」というのはあまりにも酷な仕打ちであるし、そもそも強力であると言っても、自然現象によって淘汰される可能性はあるし、元々いた世界では博士が乱獲したせいで絶滅に向かうかもしれない。ヒガナに言わせれば「想像力が足りないよ」である。

 その結果として凄惨な生息地の奪い合いが起こって生態系が滅茶苦茶になるようであれば、環境の変動によって水源が汚れ、農地が失われ、間接的に大勢の人間の生命に関わるかもしれない。単なる一人の人間であるのに、あまりにも他者の生命に犠牲を強いる博士の罪は大きい。物語がそうしたように、個人が行使して良い自由の範囲から甚だしく逸脱した場合、死をもって贖う他はないと言われれば、否定しきれないところがある。(そして親として博士を求めていたペパー以外の誰も博士の死について惜しいと思ってなさそうな点は不謹慎ながらさもありなんだなと思う。環境保護法ないのかこの世界。)

善きコンキスタドールとしての主人公

 また、自由さを暴走させているように見えるのは、帝国やポケモンだけではなく、パルデアの主人公自身もそうである。彼または彼女の動きは悪名高いスペイン帝国のコンキスタドールに似ているところがある。彼の遠征先をキタカミと考えると、漢字で書けば「村主」であり家が里の何らかの中核を担ってきたことが仄めかされるスグリの願いや信仰をオーガポンという御神体ごと奪い、彼を差し置いて街の人間や姉の観心を買い、彼の沽券はズタボロである。その後で引きこもった彼が半ば距離を取り、イッシュでパワハラマンと化して「帝国」を築こうとすると再び現れて成敗し、悉く彼の縄張りを破壊していく。「原住民」としてのスグリが「外来種」である主人公に敗北する様子をかなり強調して描いている。主人公が彼をパルデア、キタカミ、イッシュと惑星を一周して追い詰めていく姿は、アステカ帝国やインカ帝国の末路が有名な「太陽の沈まない帝国」のコンキスタドールそのものである。(注:現実の各々の帝国にはそもそもの内紛や信仰の問題などそれぞれの事情と失敗があったので被害者と加害者の単純化はよくないが、あくまでもモチーフとしての推測であり、歴史の詳細な成り行きを概説するものではない。)
 こうして見ると若気の至りのスグリもスグリだが、成り行きとは言え主人公も外形だけを見ればなかなか執拗に見える。歴代の主人公にしても、ホップの夢を悪気なく木っ端微塵にし、ミツルを廃人に追い込んだりするなど、超然として容赦がない。

 では主人公と他の人々の何が異なるのかというと、主人公は赴いた地に「調和」をもたらす点である。彼は闇雲に力を求めたスグリには敗北をもたらしたが、最終的には真正面からぶつかって彼の心に折り合いをつけさせる。キタカミの子どもたちの排外主義を癒し、モモワロウやパラドックスポケモンという我々の世界で言えば侵略的外来種も迎え入れてしまうし、よからぬことに利用したりはしない。そのように主人公は相手を真っ直ぐに打ち倒すが、あくまでも相手を支配はしない。例え主人公を操作しているように見えている暇なプレイヤーが6V色違い厳選に狂って一匹一匹をぞんざいに扱っているように見えても、主人公自体は一匹一匹と心を通わせている(ことになっている)のである。

 そんな彼および彼女の「自由」の力は、過去の帝国や、力を求めるあまりに他者を足蹴にしてしまう者や、物語ごとに現れる特定の価値観の一方的な権利を主張する者らのそれとは一線を画している。つまり主人公が行っているのは、いわゆる「多様性の中の調和」の成就を助けることにその力を行使しているのである。

結晶体という調和への可能性

 「多様性の中の調和」という概念は、パルデア半島のモデルとなったイベリア半島に起源があるとされ、多民族を抱える多くの宗教でも扱われてきた。解釈は場合によってやや異なるものの、今では日本の首相を退陣させる程には複雑怪奇である諸加盟国をまとめ上げるヨーロッパ連合の理念である。この概念は全体への挑戦としての帝国の理念とは異なり、全体の存在と自由を折り合いの中に認めて包括するため、苦境に立たされる昨今のEUの姿のように時に弱くはあれど、淘汰されることのない理想の一つである。

 そもそもは、パルデアで言えばボウルタウンのあたりのムルシアという地で生まれたイスラーム教徒のイブン・アラビーが考え出した概念である。彼は多様性の中の調和という言葉について「すべての存在の単一性と単一性の中のすべての存在」という方向性で思索を深めた。すべてのものは神の本質の投影であり、故にすべてのものは神の一部であるというのである。信仰上神が前提ではあるが、宇宙を一つのシステムとして理解したものである。
 この考え方は生物学で言えばすべての生命の起源となる存在とこれに連なるすべての生物の系統図の構造、物理学においては高次元の構造の影が三次元に投影されたのがこの宇宙と我々であるという仮説が想起される。つまりシステム一般についてのこの考え方は真理的と言える。そしてパルデアの物語において結晶体が描いているように見える世界が歩むべき理想像もまたこれに立脚しているように思われる。

 現代世界の価値観でこの概念を解釈すれば、結局のところは生態系の厳しい食物連鎖も人間社会の勝利も敗北も、大きく見れば一蓮托生の一つのシステムであり、その中のそれぞれの系においてそれぞれの折り合いがつけられ、成員の全てが進むことが最善なのではないか、ということになる。例えば人間社会というシステムにおいては、昨今の帝国の論理によるロシア軍の隣国への侵攻が、生態系内の食物連鎖とは性質が異なり、破壊以外の何ももたらしていないことは、ほとんど誰の目にも明らかである。
 イッシュのポケウッドの一編に、ありがちで薄っぺらい「悪」が物語へ侵入したことを仮想した映画があったが、その中でやや茶化しつつも示された「ここはみんなの理想の遊園地」という言葉は、あながち冗談ではないのだろう。

 つまりは人間も生態系もそういった調和に努める限り、ウルトラホールの行先に代表される荒唐無稽な未来の因果を辿ることはないということである。だが、変わらないことは変わることであるとダーウィンの論理が導き出すように、宇宙が熱的な死を迎えることが起こるまでは、状態というものは進行して変わる。その中で人間がこの世界のすべてのものと折り合いをつけていく過程においては、はるか昔に離れ離れになったポケモンたちの願いも再び聞かれなければならないのである。

強く正しく進むための「秘宝」

 ここでやっと結晶体の「夢を叶える」性質と生態系という概念が出会うことになる。結晶体からのエネルギーは基本的には事象と反応してタイプを得るようだが、恐らくはポケモンの精神の中の願いが形作るそれぞれの事象のイデアのような概念にも感応し、そこでもタイプエネルギーと化す性質があると思われる。そしてテラスタルエネルギーを放射する結晶体によってポケモンが変わるというのは、放射性物質を用いた遺伝子組み換え技術がモデルであろうから、これは前編の核物質としての結晶体の側面の一つにも数えられる。だが、全く異なるのはこのエネルギーは被爆しても破壊的な遺伝子の変化を起こさず思考回路に干渉し、体表面上にある程度の実体を表出させてくれるという点なのである。

 例えば草タイプは草タイプでしかないというポケモンの硬い因果を意志に基づいて変えることができ、彼らそれぞれが小さな自由さを持つことで少しだけ因果への干渉力を持つ小さな特異点となるのである。これはポケモン側の生態系の中における「納得」と「自由」の度合いを高め、人間側の応答次第で人間とポケモンを包括する生態系のシステム全体としての強靭化をもたらす。例えばテイヤール・シャルダンの「オメガポイント」概念を人間以外に拡張するものでもあるし、因果論においては全ての各生物の行為者性の穏やかな強化と言えるだろうか。このことはまさに多様性の中の調和の完成に寄与するものであり、確かにポケモン世界においてはタイムマシンなんかよりも余程価値のあるものである「宝」と言わざるを得ない。

 ただ、注意しなければならないのは、別に全てが全て変わらなければならないということではないし、変わることが常に良いことというわけでもない。例えば水中に棲みながら炎タイプのテラスタルを願望し、結実してしまった間抜けな個体のその後は心配である。

 故にあくまでも、自由で残酷な生態系というバックグラウンドを維持したまま彼らの適応の幅を増やすものであり、同時に長きに渡りテラスタルエネルギーが照射されることによって、別の姿へ変化していく可能性をも提示するものである。博士AIの言う時に苦しい未来に向かう力であり、「いつもいつでも本気で生きてるこいつたち」の背中を、彼らの意志に基づいて押してやる力と言えるのではないか。
 仮にこれを我々の世界の大多数が必要だと感じ、動植物に対して望んだとしても、実現は遠い遠い未来のことになるだろう。あくまでもポケモンと人間の近さと結晶体という革命的な物質の存在故のことである。また、オリジナル博士のテラスタルオーブの開発という(恐らく)金策無くしてはポケモン世界にもこの可能性はいまだ存在しなかった。先ほどは万死に値すると言ったが、本人がそれを願ったかは別としても後世の人々に遺したものとしては非常に大きいと言える。絶妙なキャラクターデザインのバランスである。

 そして、テラパゴスの甲羅の模様やポケモンの頭上に発生するテラスタル結晶が、人間が描いたユニバーサルアイコンのデザインのようになっているのが何故なのかという疑問もここに関わってくるのではないか。テラパゴスについては吊り下げられた「ドリームキャッチャー」がモデルであることは指摘されており、この点は願いのエネルギーに関連することもあり違和感がないが、背中の模様は「動物らしくない」デザインであり陳腐に見えるという意見も散見された。
 だがそれはたまたま手先が器用な人間の精神と彼らの秘められた彼らの認知能力や言語能力で構成される精神は似通っており、かつ、形状的に喋らない彼らの意志の「表明」でもあるということを示すからではないか。つまり人間との共通言語の可能性を示すものであり、相互理解、調和は夢ではないことの示唆と解釈できる。

 そんな中で主人公は、前編で述べた病んでいたスグリとブライアの不穏で危険な魔の手を排して、純粋な結晶体の申し子であるテラパゴスと人間の恐らくは最初の「交渉」を成功させたと言える。同じイッシュの人間でもブライアとは正反対と言えるNが苦悩した、いまだ成されない人間とポケモンの調和を目指す過程において、ポケモンたちの願いを知るためにはこの根源的な存在との交渉は失敗するわけにはいかないものであり、故にテラパゴス戦は見た目以上に極めて重要なものだったと推測する。

図2. 特段意味はない賑やかし用のAIが生成した亀

 そしてこれを成した主人公はパルデアとその物語を調和が完全に崩れた因果世界へのコースアウトから救い、次の物語へと世界を繋げることが出来たと言えるのだろう。我々にしても小難しい進化論がそこまでわからなくても、ガラパゴス諸島で愛されたロンサムジョージを忘れないことで、未来が少しでもよくなる一助になっているかもしれない。

おわり

 全編を通して述べたように、結晶体はモチーフも根拠がないわけではなさそうで、それでいて物語の根幹に見事に接続されているように見える。仮説に仮説を重ねたものではあるが、この要素が何なのかを考えておかねば、ポケモンの物語は理解をしようにもとっつきようのない場面が多いように思われる。そしてシリーズのテーマからしても、本章の結論がそこまで大外しはしていないのではないかと一旦結論する。まあ全くもって完全に外れていても、暇つぶしが徒労に終わっただけである。

 だがこんな妄想が仮にいくつかの本当を掠るくらいには捉えていたとしても、本来は口に出して語る必要はないことだなとも思う。「宝」とは体感して心に刻むものであるし、こんなものは不粋だ不粋だ…と思いつつ少しずつ歴史の考察に入っていきたい。

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