ダイスケさんへの手紙(人の資質と社会システム)
(3年くらい前に、とうもろこし畑で書いた手紙。今後の社会システムについて考えてたと思います。)
ダイスケさん
忙しいのにありがとうございます。
ちょっと長くなってしまいそうです。どうか時間のある時に読んでください。
先日、とうもろこし農家でのバイトをしているときに思い浮かんできたことです。
以前から人を資本にした社会システムへ移っていくべきなのだろうなという思いが僕にもありました。最近では縄文系やヒッピー系な人達だけに限らず、色々な場でその理想の姿が語られているのもちらほら耳にするようになってきていると思います。
ただ、その具体的な道のりが、なかなか解らなかったのです。ですが、なんとなくヒントのようなものが見えてきた気がしたので、とりあえず一方的に話してしまうことを許してください。見当違いな可能性もあります。
資本は人と考えたとき、よく上げられる点は、その人の知識や経験や技術などだと思うのですが、そこの前にある「資質」こそが本当の資本へと繋がるのではないかなと思ったんです。その人の純粋な性質。
本人ですらよくわからない個人の「資質」や「素質」をどうにか可視化させる仕組みを作り、それを公開して、あらゆる当てはまる場へ繋いでいく信用の場があったとしたら…
後付けされた、経験やスキルではなく、あくまで生まれ持った、もしくは生まれる前から引き継いでいるその人の本質を追求して、そしてそのデータを基にその人が素の自分のまま、真にその人が当てはまるべき役割(地域、団体、企業、人、家族、事業、活動、環境…)へ繋がっていくことをサポートするようなソーシャルネットワークサービスのようなものを作り出せたとしたら、社会の様々なズレを修正して、持続可能な姿が少しずつ見えてくるのではないかなと思いました。
社会のあり方を考えるのであれば、まずは1にも2にも個人のあり方へ意識をもっていく方が早いのかもしれないと思うことがあります。
「資質のデータ化」
僕の知識ではこんな程度の表現にしかならないのですが、そもそも資質とはなんなのか。
答えのあるものなのか?
あったとして、それを導き出すシステムなど実現できるのか?
できたとして、そのようなことをwebサービスに頼るということに違和感が山盛りな人もたくさんいると思いますし、誰がお遊びや気休め以上に信用して利用するのかというような疑問は簡単に思い浮かぶし、よく解るのですが、それは現在の立ち位置からの疑問でしかないようにも思うので、とりあえず置いておかせてください。
そのデータづくりは、単にその人の好きなことや興味などを集めるだけではなく、(趣味趣向関心などは親や教育、地域色などによって後付けされてふくらんでいった1つの観念でしかない場合が少なからずあると思います)もっと奥深くへつながることを目的とするために、あらゆる知恵や研究資料、さらにはAIなども利用する必要があるかもしれませんし(軽々しく言ってしまいます)、それはおそらく見えない世界と言われるところの伝統技術、例えば占星術などのスピリチュアル方面も併用して、それでも説得力を失わない表現方法でもって、本気にその人の資質を診断するシステムと、それをハローワークやindeedなどではなかなか見えてこないような性質の社会の各場所にも繋げていくシステムづくり…、というようなものがすでにもうあるのか、ないのかわかりませんが、たとえばエンジニアさん達からすればこういったものを構築して維持する作業がどんな内容を意味するのか、僕にはまるで解りませんし、おそらくほとんどの人が興味をもたないような気がします。
ただ、そのようなものが実現できたとしたら、今まであまり表に出てこなかったような人達も必要とされて、本当に必要とされる仕事が大切にされて、いずれ社会の根っこの部分の何かが変わり始めるのではないかと…、それと単に、僕自信がいまだに自分のことがよく解らないので知りたいという思いが正直けっこうあります。
夏の間僕は隣町の高原の大規模農業法人さんでバイトをしていました。
そこで僕は大量に収穫されたトウモロコシの一部を冷凍加工する作業を担当していたんです。
毎日加工場のなかで機械をつかって延々と真空冷凍加工を繰り返しました。
繁忙期の余裕のない空気のなか、そういった大規模換金農業に対しての感情はできる限り捨て去って、何も思考せず、ただ淡々と作業を進めることに努めました。
そのうちに、東京の大学生のグループが授業の一貫?として、数日間の農作業体験、あるいは地方体験として毎週末に代わる代わる農場にやって来るようになり、僕の担当する加工場にも何人もやって来て毎回作業をともにするようになったんです。
つまり、思いがけず18~20歳くらいの若い人たちが、現在の社会システムにどっぷり投入され始める様子を改めて間近に目にすることになったのです。
僕はこの10年間各地の山奥で小さく暮らしていましたから、まともにこのような光景を見るのは久し振りなだけでなく、ほとんど社会システムからドロップアウトしたような人達が回りにいることが多かったものですから、なんとも不思議な気持ちで見ることになったんです。
しかも彼らに作業の指示を出して、この仕事をやらせているのは紛れもない38歳の僕なのです。
そして案の定、みんな完全に無表情で、朝から夕方まで、他のイライラしている作業員に急かされながら何時間もひたすらにトウモロコシの皮をむき続けるのです。やって来るどのグループもほとんど同じ様子で、そこに笑顔らしきものはほとんどありませんでした。
38年間いろいろ考えながら生きて来たはずの僕が今していることは、彼ら個人を見ることなく、農薬のために手肌が痒くなるモロコシの皮を、皆一様にただ黙ってバリバリむかせ続けることでした。
それでも、まあそんなにネガティブに思うことでもないだろうと気持ちをニュートラルにして、なるべく気楽にコミュニケーションをとるようにしようと努めていました、が、ある瞬間に、このような場所に十数年後、自分の子供が黙って無表情に作業をしている姿が目に浮かんで来たとき、機械を動かす僕の手は完全に止まっていました。
ダイスケさんのnoteの投稿を読みました。
会社組織を運営しながらも、情緒のある人がちゃんといてくれていることに、感動していつも嬉しくなります。
「どうやったら持続的な暮らしを、わが子の笑顔を続けられる社会をつくれるか」
書かれていたこのお題について、僕もかれこれ長い間、資本主義経済システムとはなるべく間をあけるようなポジショニングで対峙してきました。
ですが、今だボランチ的なパスも、ウイング的なサイドの駆け上がりも見せていないどころか、フィールドに入ってもいません。
それでもスタジアムの外には出ていかずに端のほうで、住所不定の車旅をしたり自然農や玄米おむすび屋をしながら、わりと本気に優しい社会の作り方を考えてきました。
シェア、ギフト、思いやり経済…
お金を悪く思わずに、フィールドの外だからこそ出来ることを出来る範囲で実践もしてみました。
そうしてみて思ったことは、今のままこのようなオルタナティブな形式を試みても、身近などこか(家族など)に少なくない負担がかかってしまいやすいということと、何より自分の中で何かが釈然としないのです。
それはなぜかといえば、単純な話で、たぶんベースの部分がズレているからではないかなと思いました。
つまり、”意識的”にもっともそうな社会活動なり事業などをしたとしても、しかも大勢が立派に行ったとしても、ベースの部分、つまり「自分が自分らしくある、素の自分である」こと以上に快感ややりがいを感じることはなく、さらにそこにズレが生じているかぎり、周りを動かすことにもつながらないというものでした。おそらく人の意識が把握していることなどはその程度だからなのだと思います。
私たちの日常は、素の自分でいることが難しい意識的なシステムに囲まれています。
もちろんすべてをシステムのせいにするのは馬鹿げているとは思います。
でも、社会システムがもっと人の見えづらい資質に価値を見出して、その発掘をサポートする用意があれば、もっとスムーズに豊さへと繋がり、各人がリラックスして生き生きと暮らせるのではないか。
人は自分の資質に沿った役割に当てはまっているとき、限りなく自分の素に近い状態でいられるのだろうと思うんです。
そのような自然体でいるとき、人は自然の法則に自然としたがって生きることができて、自然の法則に従う人間は環境や精神を壊すような生活や仕事のあり方から自然と遠のいていくのではないか…。
それはつまり、持続できて、なおかつその人の能力を最大限発揮できる発酵した社会に繋がっていくように思いました。
今私たちが従っているのは学校のルールや社会通念、大人の常識や地域の習慣、会社の空気、そして何よりお金を資本とした経済システム…。
いずれにしても素の自分から遠ざかった状態では、どの道でも持続できないように感じます。(ここで厄介なのが、本当の素の自分とやらは、大抵の意識や思考では霞んで見えてしまい、自分で自分の素を誤解してしまう可能性もあるというところで、やはりいくらか己の心のグラウンディングなり洗濯なりが必要なのだとは思います。その上でシステムがサポートする。)
長々話してきましたが、どんなシステムも所詮はシステム。よりよく生かすかどうかはその人次第なのは変わらないことだと思うので、いずれは精神世界の理論も大きく関わってくるようになると思っています。
テクノロジーと精神世界の融合。
そんな辺も楽しみだなあと、思っています。
まとまらない話を長々ごめんなさい!
ただ誰かちゃんと聞いてくれそうな人に話せば、解像度があがるのかもしれないと思ったんです。
なんだかドラえもん的な話をしているような気がしてきて、恥ずかしくなってきました。
茨城とは反対側の青い海を前に、ダイスケさんもきっと色んなことを感じているのだろうなと思っています。
これから秋を迎える長野も実に気持ちのよい空気と景色が広がっていきます。もし長野でキャンプミーティングなどあれば、場所のセッティングは相談ください。
家族みんなでお迎えします!
その他協力出来ることがあればなんでも言ってください!
読んでいただいて本当にありがとうございました!!
暁洋