安野光雅さん「本を読む」(读书) 運命の神は なんと意地悪なのでしょう。
耄碌 (年老昏聩)
読書好きな人が、JOKEで「つんどく(積読)」と、よく言われます。
私もその一人です。が、いつまでも「つんどく」わけにはいきません。健康寿命にも限りがありますし。鶴見俊輔さんと津野海太郎さんが、私の5年後を示唆しています。
ということで、先輩の方々のご経験を先人の杖として学び、つんどいた本を次々とかたづけていこうと思います。
記念の第1作 (纪念的第一编)
このnoteを始める記念の第1作を何にするか迷いました。で、つんどいた本をみると、このタイトルがぱっと目につきました。これこれ、まさに今の心境を端的に告知して頂いています。安野さんは、本好き・絵画好きの方は当然ご存知ですので、解説はいたしません。そもそも解説は好きではないし。YouTubeなどもあるので、本や絵本や絵画や美術館を直接ご覧ください。
私がご紹介したいのはこのご本のあとがきです。少し引用させて頂きます。
安野さんの憂鬱 本読みの悟り (郁闷和醒悟)
恋の悩みは特例か 本を読む動機 (读书的动机)
「だれも知らない心の中を、美しく装いたい。それは人に知られなくても、いいことなんだと悟りたいと思う」と語られていますが、恋の悩みは特例かもしれません。このご本の中に「運命の神は、何と意地悪なのでしょう(リルケ『ポルトガル文』)」をとりあげています。ノンフィクションです。1666年イタリアの尼僧が軍人貴族に禁断の恋をし、失恋し、その痛手を5通の手紙にしたためてお相手に送り、その身勝手さをある種糾弾したものです。軍人貴族は、スペインから独立闘争をしていたポルトガルを支援しているフランス軍人です。私は、この作品を「美しい恋の物語(ちくま文学の森)」で読んだ時、この356年も前の率直な言葉の弾丸にちくちくと撃たれ、ページがなかなかすすみませんでした。私がもしこの手紙を頂いたとすれば、破らずもっておくでしょう、一生誰にもみせることはできませんが。軍人貴族もそうしたようです、そのためこの1件が知られることになった。しかし、尼僧の立場を考えると、誰にも知れず焼却してもよかったかもしれません。軍人から尼僧への返信の手紙は残っていませんでした。
文明は変わっても、人間の性の根本はあまり変わっていないのかもしれません。それが、本を読む動機になっているように思えます、よりよく生きるために。読まないとわからない、読まずにはすすめない。TVや映画や動画は受け身でいる限りは面白くない。作り手になれば、その作る過程の面白みはあるかもしれません。
孫っ娘へプレゼント (这是送给孙女的礼物)
3月京都駅の伊勢丹にある美術館「えき」で追悼展「安野先生のふしぎな学校」をされていたので、観覧しました。そのカタログが、とてもよく出来ていたので購入しました。
後日、孫娘が遊びにきましたので、このカタログをプレゼントしました。実際の絵本には、文字が入ってストーリーがあるのですが、カタログには文字が入っていないところがあったので、オリジナルに補強して。
将来、大人になっても何回でも安野さんのご本達に慣れ親しみ、想像力や自分で考える力を育んでもらえたらと思います。
今後は (今后还请多关照)
つんどいた本を読み、日常に起こることをきっかけにして因習外の関係に転じて、気のむいたままに自由に書いていきます。リルケの「日常茶飯」ですかね....もうろく度の軌跡と記録になりますね。
やはり、老後の読書は過去に往きつ戻りつになりますわ。
次、長谷川四郎さんをとりあげるか、35年前一番初めに働いた「情報センター」のお話しを書くか、はたまた別の方か迷っていますが。
特定の作家さんは、その関わった運動や傾向を中心に研究Noteをつくり、別のマガジン形式でいずれ深く論究したいと思います。例えば花田清輝さんの文化運動や魯迅さんの木版画運動など。
こういうnote形式なので、自由にかけるように思います。