菅義偉首相のために、オリンピック中止会見用の原稿書いた
オリンピックはもうどう考えても中止にするべきなのに、なかなかその発表がない。もしかして誰も中止会見用の原稿書いてくれないのかな?と心配になったので、代わりに書いてあげたから、使っていいよ、菅さん。
会見練習用に朗読したものをYouTubeにあげています。そちらも合わせてどうぞ。
あかたと飯田の日曜配信 / #東京五輪中止 (2021.06.27)
51分すぎから朗読しています。
この文章は上西充子先生発案の #菅首相に東京五輪中止の会見原稿を書いてあげよう というキャンペーンの呼びかけに応えて書いたものです。よろしければみなさんも、菅首相に原稿を書いてあげませんか。どうぞよろしくお願いいたします。
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オリンピックはわたしの夢でした。
わたしはいちご農家に生まれながら、いちごが嫌いでした。教員であったことにすがり、いつまでも教員面している母のことも、いちごごときで「成功」を納め、勲章をもらった父のことも、大嫌いでした。秋田出身を売りにしてきましたが、秋田のことも嫌いでした。でも、16歳の時に見たオリンピックだけは美しかった。あんなキラキラした世界に自分も行きたいと思いました。その時、もしかしたら自分も勝てるかもしれない、と初めて思いました。そうして、秋田を捨て、東京に出ましたが、東京も、大学も、わたしを変えてくれなかった。そのことをずっと恨みに思っていました。勉強も嫌いでした。あんなものは何の役にも立たない。そう思っていました。そんな中で、全てに行き詰まったわたしは、26歳で政治を志しました。政治家なら多少バカでもできそうだし、政治家になれば、世の中を動かせるから、自分が生きた証を残せる、そう思いました。もう一度オリンピックをやることこそが、自分の夢でした。そのためには、なんだってすると覚悟していました。コロナは風邪だと思っていました。
今朝、ぬるい水道の水で顔を洗っていて、ふと思いました。何故自分は今、こんなところで快適に顔を洗っているのだろう。そうして、あの、大嫌いだった秋田の、あの冷たい水のことを、忌々しく思い出しました。わたしはずっと、水道が快適に使えるのは、自分が水道代を払っているからだと思っていました。
このコロナ禍で、それでもオリンピックをやりたいと、あの美しいものを皆に見せたいと思っていました。オリンピックをやりさえすれば、あの、16歳の自分のように、みんなしあわせになれると思っていました。それが政治の仕事だろうと思っていました。でも、今、もう、わたしのまわりには、誰もいない。気がつけば、わたしはひとりになっていました。わたしは、それの意味が今日まで、よくわかりませんでした。
さっき、気がつきました。この水道は誰が整備してくれたのだろう。きれいな水が出てくるのは、どうしてだろう。それは、公共というものが、社会というものがあり、それをきちんと政治が動かしていてこそ、自分は今、堰に流れる水で顔を洗わなくても済んでいるのだということに気づきました。それと同時に、わたしのまわりから人がいなくなった理由も、やっとわかりました。わたしは間違っていたのです。水道が出るのは、自分が水道代を払っているからではなく、政治家は「自分が生きた証を残したい」からやるようなものでもなかった。この歳になって、周囲をみまわしてみれば、そもそも「自分が生きた証」、などというものは、「これを生きた証にしよう」なんて考えて、残せるような、そんなぬるいものではなかった。わたしは、もっと人の話を聞くべきだったのです。
そうして、水道すら無く、家の前の堰を流れる水で顔を洗っていた自分、あの時に見た、輝く世界としてのオリンピックには、自分はもう還れないのだということに気がつきました。オリンピックでキラキラ輝いていたのは、テレビの前の自分ではなく、本当の覚悟をして、自分の時間を真摯に積み重ねてきた選手たちでした。自分ではなかった。それに、今は今で輝く世界は作れたのかもしれない、でも、それはオリンピックではなかったし、政治には、輝く世界に向かってやれること、やるべきことがたくさんあったのに、自分はそれを、総理大臣という立場にまでなりながら、なにひとつやってきませんでした。
かつてわたしは、自分の本に「やはり最後は本人の覚悟しかありません」と書いてもらい、その下りを気に入っていましたが、やっとわかりました。わたしがしていたのは、覚悟ではなく、博打でした。そして、わたしは今回、博打に負けました。賭けていたものは、皆の、あなたがたの、命と日常でした。
オリンピックは、わたしの、夢でした。
本当に、申し訳ありませんでした。
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参考文献:菅義偉(2020)『政治家の覚悟』 文藝春秋