ストーリテリング-現代におけるおはなし-(間崎ルリ子著)を読んで
8年前、息子を妊娠中にふとしたことがきっかけで昔話に興味を持った。
詳しく知りたいと思い調べるうち、世界の昔話やグリム童話の研究者、小澤俊夫先生のラジオや本と出会った。以来、生まれた息子と絵本や昔話を楽しんできた。
息子も小学2年生になり、私も少し子どもとの暮らしにゆとりが出て、今年から小澤先生の昔ばなし大学の語法理論研究会に参加を決めた。
また、改めて「読み聞かせ」ではない、自分のうちに息づいたお話を相手の目を見て語る「ストーリーテリング」の大切さに気がつかされ、こちらの講座を受講することにした。
さて、ストーリーテリングについて学び始めてから、自分の中で一つ引っかかっていたことがあった。
幼少時から本が好きで、ものを買い与えることには厳しかった母も、本だけは望む時に私が選んだものを与えてくれた。
幼稚園の頃は絵本や昔話やピーターラビットに親しみ、小学校へ上がると外国の少年少女のための文学を多く読んだ。
小公女、赤毛のアン、若草物語、足長おじさん、宝島…
霧のけぶるロンドンってどんなところだろう?
ブランマンジェってラム酒って何だろう、絹のストッキングにレモンゼリー、輝く湖水に教会のピクニック。
どれもこれも見たこともないけれど、こんなに素敵に書かれているのだもの、絶対に素晴らしいものに違いない、そう強く思っていた。
そのようにして本の中、つまりはこの世界にまだ見ぬ素晴らしいものやうつくしいものを見つけ、それらが実在するのだと信じ続けてきたことこそが、自分の根源にある。
それは、思春期における自己の揺れや、成長の苦しみの中でも消えることはなかった。むしろ自分の信ずるうつくしい世界は必ずある、と思い続けることが唯一の光であった。
しかしながら、私は自分で「読む」ことは多くしてきたが、読んでもらったことはほとんどない。
母は子どもが自分で読むのを良しとし、語りや読み聞かせることはあまり良くないと考えていたようだった。
「語り」によって本の中の言葉が立ち上がり、生きた言葉となって子どもに伝わる、さてそういった経験を私は飛ばしてしまったのだろうか。
私が本の中で見つけた世界は「生きた言葉」の世界ではなかったのだろうか。
いや、それは違う。
では私は「生きた言葉」をいかにして獲得したのだろうか、という疑問が浮かんだ。
しかしそれは本書を読むことで、合点がいった。
豊かな五感の経験の重要性と、その上で、自然や心に反応して「子どもにそれを伝えないではおられない状況のもとで語りかけられたことば」は生命をもった生きた言葉である、という著者の主張は、自分の実体験や子どもとの暮らしの中で得る気づきと重なり、すっと心に入ってきた。
幼少時、私は庭のある家に住んでいた。
春にはつつじの中にへびを見つけ、夏は芝生の上で水遊びをし、秋には柿の木からもいだ柿を祖母が剥いてくれ、冬は雪の上にさざんかの花が落ちた。
そのような毎日の中で母はお話こそ語らなかったが、私に様々な言葉をかけてくれていた。共に歌い、笑いかけてくれた。
毎秋になると遊びに来る祖母は布団の中で、たくさんの自分の「昔話」をしてくれた。
それらは、上に挙げた生命をもった「生きた言葉」ではなかっただろうか。
著者の言葉を借りれば、そのような経験の蓄積により、私の中にその体験を再び求める気持ち、美や人の心のあたたかさや、この世界のうつくしさを求める精神が生まれ、それに向かって行動を起こした=書物の中にそれらを見出した、のではないだろうか。
そしてそれは今に至るまでずっと私の根底を流れ、生きる力となっている。
大人になり、私は本の中に見つけたこの世界のうつくしさを、本当の世界の中にも見つけることができた。
幼い頃に母が祖母が見せてくれた、あの、あたたかく色づき、人の心を信じられる世界を。
この世界には苦しみや悲しみも満ち溢れて、それらに心の痛まない日はない程である。
だからこそ、子どもたちがしっかりと自分の心を作り上げていけるよう手助けをし、見守ることは、大人が子どもたちにできる数少ない、けれども大きな役割ではないだろうか。
ストーリーテリングの扉を叩いたことが、少しでも子どもたちのよろこびに、生きる力に繋がることを、本書を読んで一層、願った。