明石隼汰の上京物語 第二部「アルバイト篇」

このエッセイは、2011年10月〜12月、Mixi日記に掲載した「上京物語」第二部を再掲したものです。


7

さて。重い腰を上げ、第二部を始めます。
仕事の合間に書きますので、長い目でよろしくです。

新しい出発となった木造アパート「橋本荘」は2階建て全6室。
明大前駅から徒歩3分。2階の端、四畳半一間で風呂なし、家賃2万円の部屋でした。
窓を開ければすぐ京王線の線路。テレビを見ていると数分に1本電車の騒音で音が聞こえなくなるため、手元まで引き延ばせるスピーカーを秋葉原で仕入れました。

難点は、共同のトイレがくみ取り式で、強烈に臭いこと。
どれぐらい臭いかって、アンモニアが目に染みて目が開けられなくなるぐらい。
そして臭いが服に付くため、トイレ専用のジャージが必要でした。
液体消臭剤は、あっという間になくなりました。

風呂は、徒歩3分の所にあるコインシャワーを利用します。
100円で5分間お湯が出る仕組みで、200円持って入り、最初の5分で洗面器にお湯をため、シャンプーをしリンスつけたあたりでお湯が止まります。
洗面器のお湯で体を洗った後、残り100円入れて流すという段取りでした。
そうそうそこのシャワーやさん、手書きのキャッチコピーが至る所に張られてましたっけ。
「国民の90%がシャワー好き」(どうやって調べたのか・・・)
「毎日シャワー、体爽快」とかに混じって
「備品壊したら、半殺しだ」という殺伐とした一文も。

住人達の殆どがアジア系外国人。特に隣の部屋には、旧ビルマ(現ミャンマー)からの留学生が四畳半に4人!で生活していました。
ある日の夕方、母国から着いたばかりと思われる袈裟を着た学生が、(ビルマの)竪琴持って!立っています。同居人が仕事から戻らずカギがないので、彼らが帰ってくるまで僕の部屋で待ってもらったのがきっかけで、仲良くなりました。
ただやはり詰め込みの環境は不衛生でした。
彼らの宗教習慣で、生肉を部屋に干しているのです!
隣の強烈なトイレから発生した大量のハエが、肉にたかっていました。

ううむ。今はあの生活には戻れないですな・・・

しかし。結構ハードそうに見える環境でも、上京後初めてのひとり暮らしということで、僕はやる気に満ちあふれていました。
全てをここから始めるのだ。
自分にしかできない音楽を、ここから生みだそう。

そして何よりまず、仕事を探さなければ。今度は現実的なものを。
今はなきアルバイト求人情報誌「フロム・エー」を購読し、見つけたのが、渋谷にある通信英語教材の出版社の、時給1,000円の事務のアルバイトでした。

満員電車の井の頭線に乗り、9時半~5時半のバイト生活がほどなく始まりました。
最初の仕事は、新聞広告を見て電話してくる客の応対と、退会希望者の処理。
バイト仲間は20人ほど。ミュージシャンやイラストレーター志望の同世代の若者が多く、すぐ打ち解けました。
ただ業務内容は何もかも初めての経験なので、いわれたことを必死で覚え、丁寧な電話応対を心がける毎日。

役に立ったのは、自分が悪いことをしていないのに「申しわけございません」と公的に謝る仕事。考えてみれば今まで、あまり他人に謝ったことなどなかったのです。ある意味、カルチャーショックでした。
でもこれは、自分を成長させるプロセスなんだと思うことで、かえってすがすがしい気分になり、進んでこなしました。

そして週末に受け取った最初の給料。
まず最初に買おうと思ってたのが、1万円で売っていた再生専用のビデオデッキ。
この日から、仕事終わりに駅前のレンタルショップでビデオを借り、ひたすら映画鑑賞をする楽しみを覚えました。数々の名作(そして駄作)との出会いは、今の自分の肥やしです。

一ヶ月ほど経ったある日、バイトを取り仕切る上司から呼び出しを受けました。
彼はすぐにカミナリを飛ばす鬼上司で、みんなから怖がられていました。
何かやばいことをしでかしたか、とびくびくしていましたが・・・
「おまえを一ヶ月見てきたが、電話の応対がとてもよい。まじめに仕事をやっている。」とほめられたのです。さらに。
「留学経験もあるんだよな。明日から2階に上がって、社長の秘書をやりなさい。時給も上げるから」
と、異動の勧告です。

・・・つづく。

(2011/10/4 初掲)


8

1987年10月、僕は某出版社で、2階の一部屋を割り当てられました。
業務内容は、会員用の月刊会報誌をひとりで作ること。
で、なぜそれで社長秘書かというと、その会報の目玉記事というのが、社長が経験した海外旅行記を面白い記事にするため、毎日社長とミーティングをするから。
そのついでに、社長の細々とした用事を頼まれたりするのでした。

当時たぶん40代、独身の社長は、都内の某老舗高級ホテルのスイートを長期で借りてそこに住んでおり、毎日ホテルからロールスロイスに乗って出勤していました。
場合によっては僕が直接ホテルへ行って社長と打ち合わせした後、一緒に車に乗せてもらって「重役出勤」。僕は社長に気に入られたようでした。

会報誌のほうは、今のようなパソコンでちょちょっというわけにもいかず、僕が書いた原稿を写植やさんに出して、それをのりで貼り付けレイアウトする、というものでした。
会員のほとんどが中高生で、会報に載せてもらいたくて描いたイラストのハガキが山のようにやってきます。それを基本、全部掲載するという方針でした。
この仕事で編集のイロハを覚えましたし、仕事が次につながることにもなり、なかなか楽しくやりがいのある毎日でした。

世はバブル真っ盛り。バイト代も増え、残業すれば月20万を超すことも。これで僕は着々と音楽機材を買いそろえ、さらに次のステップを踏み出そうとしていました。
音楽の仕事のコネクションをつけるために、音楽学校へ入ろうと思ったのです。
これはまとめて、次回に。

年も明けた1988年1月。秘書としての仕事に慣れた頃、ある日社長は僕を、教材のレコーディング現場に誘ってくれました。麻布十番の老舗スタジオ。
(僕にとっては、上京して初めて入ったメジャーなスタジオとなりました。)
現場では、新教材のナレーションのミックスが行われていました。
ちょうど最終話の録音で僕は「ガヤの音」に、見物人役で参加することに。実はこれが僕の、初めて世に出た仕事です。

さてこの日、奇しくも僕の運命を進める「事件」がおきます。
録音現場には、もう一人の(本当の)社長の「美人」秘書が一緒に詰めていました。
彼女は僕が音楽家志望ということを社長から聞いていたらしく、仕事の合間に僕のことを根掘り葉掘り質問してきたのです。
おそらく留学経験が長かったのでしょう。二人とも「気をつかう」タイプではなく、僕もいろいろと質問に答えながら、スタジオの片隅でずーっと楽しく会話をしていました。

それを社長は、だまって聞いていたのです。

帰りに乗せてもらった車の中で、社長がぼそりといいました。
「明石君、君は、しゃべりすぎだ」

次の日、仕事をしていると、人事担当の人が近づいてきました。
「明石君、君は絶対、事務のほうが向いてる!明日から事務に戻ってもらっていいかな?」
かくして僕は社長からまたもや、三行半を突きつけられることとなったのです。

早くも次の日には、僕の「後任者」がやってきました。
1週間で引き継ぎをやることとなりました。後任の彼はまじめでイラストレーター志望(そういう人を応援するのを社長は好きなようでした---得てして、社長という人は)。
写植の貼り方もすぐに覚え、引き継ぎも終わりかけた日の、深夜。彼からの電話で起こされました。
「すみません!僕、写植貼り違えて納品しちゃったんです。今、印刷中なんですけど、どうしたらいいでしょう!?」
ええー!とはいえ、深夜ですから何もできません。とにかく、明日朝まで待って、対策を考えよう。僕はそういって、電話を切りました。
彼はその後すぐ、社長に深夜の電話を入れてしまったのです。

次の日早々、僕は社長室に呼び出されました。
「昨晩、僕に電話をかけさせたのは君だろう!」
その瞬間、僕はクビを悟りました。電話の件は濡れ衣でしたが、頭に思い浮かんだのは、後任君の顔。彼だって悪気はなかったし、いってみれば僕の指導ミス、チェックミスだったことには違いありません。
「申しわけございませんでした」僕はこの職場で覚えた謝罪のことばを、社長に向かって発していました。罪を、かぶったのです。
「今日いっぱいで、ここをやめなさい。君はいろいろ、しゃべりすぎだ」

働き始めて5ヶ月めのことでした。
ガミガミ上司が、握手を求めてきました。「しっかりやれよ!」
かくして再び、僕は「クビ」をいいわたされたのです。
その年は珍しく、東京に大雪が降っていました。

つづく。

(2011/10/6 初掲)


9

さて。話を少し戻します。
まだ出版社をクビになっていない、1987年11月。
僕は、渋谷・宮益坂にその年にできたばかりの「S音楽院」に入学しました。

ここは音楽院とはいっても、授業があるのは月2回のみ、1回90分で月謝3万円。
つまり1回の授業1万5千円の、スクールと呼ぶには微妙な学校でした。
ただ、講師陣が鳴り物入りのメンバーで、ビッグネームの大御所作曲家やアーティストが講義をすること、さらにデモテープを常時受付し、よいものはどんどん業界へプレゼンしていくというシステムがウリでした。
大学でしっかり学んできた僕には、高い授業料で基礎の授業を受ける必要がなく、 月3万で手っ取り早くコネを見つけ自分を売り込むためにうってつけの場所だったのです。

僕は、2期生として入学。同級生は10数人いたようでしたが、ほとんどが高卒で、 音楽のイロハから始める人ばかりでした。

最初の授業の後、僕は早速、福島の自宅で作った自信作3曲
「最後の恋人」
「流れ者コロンの航海」
「KISS ON THE MOON」
を、1曲ずつカセットテープで提出しました。
スタッフのひとり、(後に大変なお世話になる)N氏が僕を気に入ってくれ、強くプッシュしてくれました。
それは早速プレゼンに出されることとなり、すぐにある音楽事務所のディレクターが僕に興味を示してくれたのです。
もくろみは大成功でした。

ところがその学校は、授業内容も授業毎に講師が変わり、それぞれの経験に基づく話で終わってしまうので基礎が身につくはずもなく、僕としては新しい出会いがありエキサイティングでしたが、多くの生徒が戸惑うのは当然でした。
半年ほどで授業に来る生徒数は目に見えて減っていき、講師も有名人は一切来なくなり、代わりに専属講師が来て、いつの間にか音楽理論だけを講義する形式に変わってしまいました。
さらに、その講師が休みの時は、なんと僕に講師をしてくれと頼まれてしまったほどです。

とはいえ、僕より5才ほど年上の専属講師も、僕のことをとても気に入ってくれました。
彼はバークレー音楽院で最新のジャズ理論(アッパーストラクチャー・トライアドや、分数コードなど)を学び、それを、ほとんど僕のために授業で伝授してくれたのです。
他の生徒で付いて来れる人はほとんどいなかったはずで、はなはだ迷惑なことだったでしょうが、これは未だに僕の血肉になっていて、今もCM音楽の仕事に見事に役立っています。
このことは、予想外の収穫でした。

この講師は朝日大輔氏といって、当時、日本のキース・エマーソンとして「ネビュラ」という凄腕プログレ・ロック・トリオでデビュー間近でした。
ところがデビュー直前、彼は突然それを蹴って世界放浪の旅に出るのです。アジアからアイルランドへと渡り、強制送還の後再び出国、渡英して今度はバーミンガムに移住。向こうの学生に音楽を教えながら大学院へ通い、プログレッシブロック研究を今も続けているという、超個性派。
帰国の際は必ず連絡があり、今でも親しくさせてもらっています。

そして、朝日先生から紹介してもらったネビュラのベーシストが、後にホロニック・プラチナムでユニットを組むことになる、大田研司氏なのでした。

入学して1年経ったある日、先生から突然とんでもないことを告げられます。
「今日でこの学校は終わりです!」
やはり資金繰りが厳しくなり、校長は闇金から借金するも返済不能となり、夜逃げしてしまったとのこと。
スタッフも先生も、給料を数ヶ月貰っていなかったのだそうです。

かくして2年で幕を閉じてしまったこの学校出身者でプロになったのは、僕だけだったのでした。
その代わり、僕をプッシュしてくれたスタッフN氏は後に音楽ディレクターとして大成功を収め、僕を作曲家として起用してくれることになるのです。
が、まだそれは先の話。
さらなる社会の荒波が僕を待ち構えているのでした。

・・・つづく。

(2011/10/8 初掲)


10

僕は、しゃべりすぎだ・・・。
確かに今まで、人の話を聞くより自分のことを話してた時間が長かった。
これは自分の大きな反省点だぞ。
次の職場では、自分のことをあまり話さないでやってみよう。修行修行!
そう言い聞かせ、落ち込む間もなく次の仕事を探すことにして、またフロム・エーのお世話になることに。
そしてすぐに、行きたい職場を見つけました。

永福町駅前にある、これまた英語教育関連の出版社が、編集者補助のアルバイトを募集していたのです。
明大前から一駅だし、前の仕事を生かせるし、まさに運命的なタイミング。
・・・ひとつを除いては。前の時給が1,000円だったのに対し、580円。
今までのほぼ半分。生活するにはギリギリでした。
それでも運命を感じ、面接を予約。
キャリアウーマン的な女性編集長が僕を採用してくれ、早速次の日から出社することになりました。
1988年3月初めのことです。

新しい職場は、その女性編集長と、女性編集員、バイト男性1名。
そのバイト君が4月から就職のため、僕に仕事を引き継ぐという段取りでした。
仕事内容は、毎月の英語教育教材の取材、原稿起こし、校正、付録のカセットテープ編集、といったところです。
毎月の音楽コーナーなどもあって、ちょっとでも仕事と音楽がつながれるのは嬉しいことでした。
朝8時半に家を出、明大前の松屋で納豆定食の朝食を食べて一駅、9時5時出勤の毎日が始まりました。

そうそう。新しい人生を歩き出すためにもう一つ決めていたことは、肉をやめること。
学生の頃から、一度実践してみたかったことを、このタイミングでやってみようと思ったのでした。
ただ、魚と玉子は大好きだったので、牛・豚・鶏を食べないいわゆる「フィッシュベジタリアン」です。
その代わりのタンパク源を取るために、子供の頃から大嫌いだった、納豆を克服しようと決意。バイト初日の朝、初めて松屋で納豆定食を頼んだのでした。
ネバネバ出さないように醤油をいっぱいかけ、そーっとかき混ぜて食べる。
くさっ!
生玉子と混ぜて、のどに突っ込みました。
次の日もガマンして、目をつぶって食べました。
三日目。もう納豆が大好きになりました。
以来、今までほとんど毎朝、納豆は欠かせません。

お昼は、近くの寿司屋でちらし寿司定食をよく食べました。
低価格でベジタリアンを実践するのは、なかなか難しいのです。
チャーハンやカレーからは肉を箸でひとつひとつよけ、野菜炒めなどは最初から肉抜きにしてもらいました。
僕はこのフィッシュベジタリアン生活を、2000年まで続けることとなります。
一年経つ頃には、肉の消化酵素がなくなったのでしょうか、肉を食べるとお腹を壊すまでになりました。
なぜ長く続けた肉抜き生活をやめようと思ったか。それは、飛騨高山に旅行に行った時、わけもなく飛騨牛ステーキが食べたくなったからなのでした。

話を戻しましょう。
働いてひと月が経ち、仕事にも慣れてきた頃、僕に引き継ぎを終わったバイト君のお別れ会が飲み屋で開かれました。
女性編集長と女性編集者は、ここぞと僕についていろいろ質問してきました。
が、僕は前の反省を踏まえ、あまり自分のことを話さないように心がけました。
僕は二次会の誘いを断り、自分の音楽に費やす時間を作るため、そそくさと帰りました。
それが、二人との小さな溝の始まりでした。

つづく。

(2011/10/11 初掲)


11

永福町のバイトを始め、肉をやめ、新しい環境になったタイミングで、自分のオリジナル曲を披露する機会を作ろうと思い、上京して初めてのライブをやろうと計画を立てました。
日時は3ヶ月後、上京してちょうど一年目の、1988年6月4日。
場所は、友人K君が今や店長を務めるかつての職場、吉祥寺クレッシェンド。
メンバーはギタリストT君と、ゲストボーカル1人のみ。
あとは自分が「打ち込み」をしたカラオケを使って、ピアノの弾き語りをすることに。
もともと僕は昔から音楽は、バンドで作るよりも楽器を全て一人でこなした多重録音で作るほうが好きだったのです。
バイトが終わってからの時間を、ひたすらこの日のための準備に費やす日々が始まりました。

職場は、女性編集長と女性スタッフ1名に僕という3人体制となりました。
僕は編集長に6月のライブのことを話し、仕事はなるべく定時で終わりたい希望を伝え、了承してもらいました。
(ついでに2人に、ライブに来てもらう約束も。)
とはいえ、雑誌の出版社というのは、日によって忙しさが変わるのです。
暇な日はずっと暇だし、当然入稿前には鬼のような忙しさになります。
そんな時にも僕は定時であがっていたので、迷惑かけまくりだったのでしょう。
ただ僕は自分のライブのことで頭がいっぱいで、あまりそのことは気にしていませんでした(低賃金でしたし)。

そしてついにライブの日がやってきました。
コンサートの名前は、The Human Histry。
ギターのT君はライブ前日に連絡が取れなくなり、逃亡。
(その後彼には、何度も逃げられることになります。)
ビックリしながらもK君にギタリストを2人紹介してもらい、ツインギターで、当日リハで覚えてもらうという荒技で乗り切り、全7曲を披露。
上司2人、大学時代の同級生、劇団仲間、前の職場の人達、そして音楽学校の先生や友人を含む多くの人が見に来てくれ、一応の成功を見せました。
翌日は日曜。放心状態のまま何もせずに一日が過ぎました。

週明けから、またもやバイトの日々が始まりました。
月末に向け、忙しさはだんだん加速していきます。
そして仕事量がピークの日がたまたま、月に二度のS音楽院登校日でした。
僕は前回の教訓から、努めて自分のことを職場で話すことを避けていました。
まさにそれが、今回裏目に出てしまったのです。
編集長が出社した当日の11時にそのことを告げると、彼女の顔がみるみる赤くなりました。
明らかに、僕に対する憤りを抑えているようでした。
日頃からのコミュニケーション不足が生んだ、行き違いでした。

次の日の朝出社すると、編集長からのメモが残されていて、一日外回りの指示が書かれていました。
次の日も、その次の日も、ずっと外回りの仕事が毎朝紙切れで指示されていました。
「4時までは、会社に戻ってこないで下さい」
あからさまな、いやがらせでした。
編集長は、僕の顔を見たくなかったのです。
そして隣の女性スタッフも、明らかに僕に対して不信感を持っていました。
自分がまいた種とはいえ、さすがにこれには参りました。
朝、駅のホームで強烈な吐き気に襲われ、会社のドアをくぐるのが苦痛でした。
なぜ、自分はこんなにも仕事ができないのだろう・・・。
公園のベンチで時間が来るのをひたすら待ちながら、いろんなことを考えました。
ヘヴィな日々。我ながらよく耐えたと思います。
口癖のように「修行、修行」と自分に言い聞かせていました。

外回り仕事が1ヶ月ほど続いた7月のこと。
めずらしく編集長は僕の前にあらわれ、話があるとミーティングルームに連れて行かれました。
話は、やはり、そうでした。
「今月いっぱいで辞めてもらえませんか」
穏便に、事務的に、切り出されました。
僕は覚悟を決め、それを了承しました。
その後で彼女が僕に、穏便に、事務的にいったことば。
今でも忘れることができません。
「不愉快でした」

かくして、今度の仕事も半年続かず、5ヶ月でクビになりました。
(ただ次回、話はクビのちょっと前に戻ります)

・・・つづく。

(2011/10/21 初掲載)


12

2番目の出版社を辞めるひと月前。
同じ階で机続きの、別な編集部の女性編集長が、こっそりカニ歩きで僕の横へとやって来ました。
「明石さん、音楽作ってるのよね。今月から創刊になった新しい月刊誌のワンコーナーで、音楽作ってもらえないかしら。これで。」
と、左手をぱっと広げました。
僕をクビにした編集長が、(たぶん僕に憤りを向けるよりも前に)音楽家の卵のバイト君が入ったことを、社内の同僚達に話をしてくれていたようです。
それは願ってもない話でした。今のバイトは、担当の作曲家から音楽をもらってくる仕事でしたが、自分で音楽を作れるなんて!しかも5万で!
僕はふたつ返事で引き受けました。

それは初心者向け英語雑誌の、「マンガで覚える英会話」というコーナー。付録のカセットテープに入る英語の朗読のBGMや効果音、いわゆる「劇伴」をつける仕事でした。
そして初めてオーダーされた音楽は、ハワイアンの曲。主人公が気がつけばハワイに来てしまった、というオチで使われるものでした。
早速その日にレコード店で(そう、まだレコードの時代でした)ハワイアンのLPレコードを資料として購入。自宅のエレキギターをコーラの瓶で弾き、スライドギターの音を作った記憶があります。
次の日に編集部に行き、テープを聴かせると、スタッフはとても喜んでくれました。
これが、ちゃんとした形で依頼を受けた、作曲家としての初めての仕事だったのです。

この雑誌への音楽制作は、バイトをクビになった後も続くこととなりました。ぜひ毎月音楽を作ってほしいと依頼を受けたのです。
銀行口座を確認すると、入金されていたのは5千円でしたが(笑)

次の月は、バンジョーを使ったアメリカのフォークソング風BGMでした。
やがて依頼される音楽は少しずつ増えていき、数年後には遂にテーマソングを含む、カセットテープの全ての音楽を担当するまでになったのです。
こうして僕の初仕事は、1988年7月号の創刊第2号から、惜しくも廃刊となる2005年まで、17年もの長きにわたり続くことになったのでした!
気がつけばギャラも、最終的には月5万円を越す金額をいただくことに。
さらに、この編集部から別の部署に移ったスタッフが僕に仕事を発注してくれるようになり、この出版社の様々な雑誌、単行本などの音楽を手がけることになって、それは今でも続いているのです。
やはり、この会社へは来るべき運命だったのです。
人生どうなるかわからないものですね!

数年前、突然、クビになった編集部の女性スタッフだった方から電話がありました。びっくり仰天です!
聞けば彼女も遂にある有名雑誌の編集長となり、なんとそのテーマ音楽を依頼してくれたのです。
僕は胸が熱くなり、十数年前の非礼を電話で謝罪しました。
長い長いわだかまりがとけた瞬間でした。

・・・つづく。

(2011/11/16 初掲載)


13

2番目の出版社をクビになった次の日。
ベッドに横になりながら、いったい自分に何が足りなかったのか、何が悪かったのか、改めてじっくり考えてみました。

劇団にいたのは、4ヶ月。
最初の出版社に、5ヶ月。
次の出版社に、5ヶ月。
半年経たないうちに、みんなクビ・・・。
三度目の正直はもうない。仏の顔も三度。
やはり問題は、自分にあるようだ。

いろんなアドバイスをもらった。
劇団のおやっさん。
「仕事をするからには、えらそうにふるまうな」
最初の出版社社長。「君は、しゃべりすぎだ」
そして女性上司。「不愉快でした・・・」

自分を出しすぎても、出さなすぎてもいけないのだな。
そして長い考察の末、こんな結論にたどり着きました。

僕に欠けていたのは、他人との適度な距離感を保つために必要な日本の文化。
つまり、「気をつかう」という考え方と、行為。

また、今まで自分は「権利」と「義務」で動いてきたように思う。
でも社会にはもう一つの規律があった。
それが「責任」と「信頼」。
責任を持って行動しなければ、信頼は得られない。

幸か不幸か、これらのことを親は教えてくれなかった。
これを社会で学ばなければ、自分は破滅だ。

こうして考えぬいた結果、次の仕事をするときに生意気に思われないための「人間関係」構築ルールを作ってみました。

・初対面では、仕事仲間に自分のことはいわない。
・相手が自分のことを聞いてきたときに初めて、聞かれた時間分ぐらい答える。
・相手が聞いてきたことと同じことを、相手に聞いてみる。
・この「ギブ&テイク」のバランスをキープしながら徐々に相手を知っていく。
・そのうち、仕事以外で相手と話す機会がやってくる(飲み会など)。
 そのときに初めて、腹を割ってお互いの情報交換をする。

これこそが、若かりし僕が東京で身につけた「処世術」でした。
たぶん、日本で普通に生まれ育った多くの人々は、こういうことを小さいうちから体で覚えていくのでしょう。
でも僕は、好き放題やって誰からも責められない環境で未成年時代を過ごせたため、自活をし、実際に叩かれて初めて、こういう「裏ルール」に身をもって気づかされたのです。
(それがよいのかどうかは、さておき。)

今度こそ、仕事を半年以上勤めてやる!

そして、思い切ってひと月休んだ後の、1988年9月。
僕が選んだ次の仕事は、明大前の自宅から徒歩5分のところにある、某信託銀行での事務作業でした。
うちから近く、余計な残業がないことを優先したのでした。
仕事内容は、株券を数えたり、ダイレクトメールを封入したりという単純労働です。
そこには100名ぐらいのパートが集まっていて、半分はパートのおばさん方。
残り半分は、若いフリーターが占めていました。

午前仕事が終わり、広い社食でのランチタイム。
早速、おばさんが集まってきて、質問攻めです!
「よし、実践実践・・・」
次の日から、僕はおばさん達の人気者になってしまったのです(笑)

・・・つづく。

(2011/11/30 初掲)


14

新しい仕事は、とにかく、ひたすら、数える仕事。
9時から5時まで、株券、そしてダイレクトメール。
僕がNTT株の係だったおかげで、おばさん達から「Nちゃん」というあだ名までつけられてしまいました。
意外に助かったのは、社食。高い外食をしなくてもいいし、肉抜きメニューでもバリエーションがあったので、食生活はかなり改善したはずです。
そして、この単純労働は何より、自分の作品を作るのに持ってこいの環境だったのでした。もっと早く気づけばよかった。

さて時はバブル時代。
フリーターということばが使われ出した時代です。
おばさん達に混じって、10~20代の若者が一緒に働いていました。
そしておばさんも若者も、よく観察すると、人によって仕事ぶりはかなり違っていました。
ここで初めて「仕事ができる人」「できない人」が見えてきました。
仕事ができる人は、今全体として何をやっていて、そのプロセスとしてこの作業が生じる、ということを見渡せるので、効率的な動きができます。
そして仕事ができない人は、いわゆる「指示待ち」で、いわれたことしかやらず、応用が利きません。

僕は、今までの仕事の失敗を取り返すべく、流れを読みながら進んで仕事をこなしていると、休み時間にある若者から声をかけられました。
「なんでそんなに一生懸命やってるんすか?」
「だってこれでお金もらってるわけだし・・・」
「ふーん、僕は無駄なことはやらないっす。仕事はいくらでもあるんで~。」
確かに、気がつくと社会では金がじゃぶじゃぶ動き、みんなが浮かれていた時代が来ていました。
もう少しうまく立ち回れば僕も、もっとお金を手にできていたかもしれません。

月2万円のアパートには、カバンを持った怪しい男達があらわれるようになっていました。
お金を積んで部屋を立ち退かせ、古い建物を壊して土地を転がす、地上げ屋です。
トイレに大便を撒かれたりの嫌がらせも数回ありました。
おかげで何人かは部屋を出たようですが、僕と、隣のミャンマー人達は、そのまま居座り続けました。

さて、働き始めて1ヶ月。僕の仕事ぶりは、正社員にしっかりと見られていました。
ある日、僕より5才も若い男性社員が、声をかけてきました。
彼はバイトを統括する係で、僕にリーダーになってくれないかと持ちかけてきたのです。
時給が上がるわけではありませんでしたが僕は快諾し、仕事の効率的な割り振りを彼と考え、仕事ができる人を中心に何組かのグループを作って、仕事効率を上げることに成功しました。
彼とは、例のルールを使って少しずつ打ち解け、信頼を勝ち得て友人にもなりました。
(ちなみに彼はヘビメタファンで、僕にメタリカのCDを貸してくれました。)
そして変わらずおばさん達にも僕は圧倒的な人気で、再び企画したライブ(これは後述します)に、徒党を組んで見に来てくれたりもしました。

気がつけば、ついに半年が過ぎていました。
あの若者は早々にバイトを去り、僕は彼の上司への進言で、なんと時給を上げてもらうことができたのです!
上司からは「ぜひやめないでいただきたい。君がいて本当に感謝している」とのありがたい言葉まで。
目標達成の瞬間でした。

そうそう。ここで大事な出会いもありました。
一緒に働いていたO君。実は凄腕ドラマーでした。
彼の才能はすぐにわかり、何度かセッションをする仲になりました。
彼は後に、X-Japanのメンバーだった故・TAIJIのバンド、"Dirty Trash Road" のドラマーに抜擢されるのです。

上京してから、2年目の冬を迎えていました。

・・・つづく。

(2011/12/15 初掲)



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