低能な観客的『マイ・プレシャス・リスト』レビュー
今回の投稿では、映画『マイ・プレシャス・リスト』をみた感想を書く。この映画をみて思ったのは、「映画を見ることを途中でやめることができる人になりたい」ということだ。考えたことを記録として書き起こす。
(この記事にはネタバレを含む)
驚くべきは心のしじま
自分の環境を打ち破っていくような映画が見たいと思って、本作品を鑑賞することにした。
主人公はIQ185でハーバード大学卒の天才であるが、引きこもりでコミュニケーションは得意ではないという19歳のキャリー・ピルビーという女性である。
嫌々通っているセラピーの相手は、父親の友人であるペトロフという医者だ。ある日、ペトロフは幸せになるためのリストをキャリーに手渡す。
最初はキャリーも乗り気ではなかったが、何をどう思ってか項目を一つずつ実施していく。
この映画を私は最後まで見たのだが、見終わったときに驚いたのは、感情が全く揺さぶられなかったことだ。
その理由を考えていく。
癇癪を聞き続けるために
まず、主人公の癇癪が苦痛であった。開始15分くらいから徐々に感じていたのだが、それがストーリーを通して繰り返される。
私も準備不足だったのだが、この映画を見る前には聞くに堪えない癇癪を聞き続ける前準備が必要である。
甲高く叫び続ける主人公をどんな気持ちで見れば、良かったのだろうか。私は映画が進むにつれて不快な気持ちになっていくのだが、このままではいけないとも感じていた。
そこで私は大事なことに思い至った。それは自分の機嫌は自分で面倒をみるということ。自分の機嫌が損なわれているときは、心地の良い環境づくりを自分で行う必要がある。
癇癪が始まりそうなときは音量を下げ、手元には好きな飲み物を置く。体が凝っていると感じれば映画を一時停止して、少し背伸びなどのストレッチをしてから再生する。
一つ一つリストを実行していく主人公の様子を見ながら、一つ一つ実行していく映画なら『7つの贈り物』の方が面白かったと考えるのは控える。
他と比較してしまうから、優劣という軸で評価をしたくなるのである。
幸せになってもいいということ
本作品を見始めてから30分くらい経過したころ。私は「このまま映画を見続けるか」と「もう見るのをやめるか」で悩んでいた。
結果として、最後まで見てしまった。
なんだかんだいって面白かったということではなく、ひとえに私が映画を見るのを途中でやめたことがなかったことに起因する。
「見るのをやめる」ことに後ろめたさやもったいなさを感じていたのだ。
しかし、この映画を見て得た学びとして人は自分の望むかたちで幸せになってもいいということがある。
本作にはキャリーが「性」について葛藤する場面が描かれている。
「性」に対して真面目に考えすぎるキャリーは、出会った男性との交流をとおして、真面目に考えすぎない方が幸せだという価値観を理解しようとする。
しかし、キャリーは一度他人の価値観に流されるが、自分の意思を通す選択をする。「性」に対する自分の価値観を曲げないかたちで行動をとるのだ。
つまり、映画を見続けることが苦痛であるならば、途中で見るのをやめても良いということに気づくことができた。
おわりに「太っちょのおばさまの反応」
この作品のキーアイテムに『フラニーとゾーイ』がある。この作品には「太っちょのおばさま」という概念がでてくる。
作中で、TV番組に出演したゾーイは、低能な観客や出演者のためではなく「太っちょのおばさま」のために、靴を磨くのだという。それがたとえ靴なんか誰からも見えないとしても。
「太っちょのおばさま」とは、理解しきれない、了解不可能であり、天網恢恢疎にして失わずを象徴するような超俗的な存在である。その一方で、一日中ベランダに座って、朝から晩までラジオを聴いているような具体的な人物像を持っている。
私はこの作品に心動かされなかった。どこをどう見たら評価されるのか不思議でならなかった。
そこで、最後まで見終わった後にレビューランを見たのだが、そこで「統計的太っちょのオバサマ」の存在を感じた。
私が退屈で苦痛だと感じた映画にも、共感し励まされ、演出の美しさに目を向けるレビューがあったのである。
私は、ゾーイのいうところの低能な観客であった。
映画を最後まで見てしまったことを後悔して、note記事のネタにしないと救われない、そんな自分を救うために書いてしまった。
#映画感想文