
「麻雀は低俗なんかじゃありません!」を越える
はじめに
もう2週間近くも前になるのか、麻雀研究の権威であるとつげき東北さんが”麻雀界は低俗”というような発言をして話題になった。
頭がいい人、
— とつげき東北🌗『科学する麻雀』著者 (@totutohoku) February 18, 2025
将棋やポーカーなどより実力が出るゲームで勝負できる人ほど、
どんどん麻雀界から抜け出ていきます。
麻雀界には頭がよくなかった人だけがどんどん残っていく。
その世界では低俗なものが好まれる。
これは私が1999年代に麻雀研究をしていた頃から、ひどく痛感していたことですにぇ😂
私も読んだ瞬間は少し嫌な気持ちにはなったものの、結局「まあ、そういうものだよな」と納得した。
そして本日、たまたまSNS関連の本を読んだ。これにより、当時の心境に関して思索を巡らせることとなったため、記録として残しておきたい。
エコーチェンバーとそこからの脱出
アメリカでは、SNS上で「共和党支持者」と「民主党支持者」が論争を頻繁に巻き起こしている。
SNSは時事情報源として規模が急速に拡大しており、さらには自分が触れたい政治情報を選べる作りとなっている。そのため、SNSによってユーザーはエコーチェンバー(閉じたコミュニティの中で特定の情報や意見が強化される現象)に囚われやすくなっているのだ。
そこに本書は注目し、一般論として蔓延っている「エコーチェンバーを脱すれば、誰もがより穏健でより見識の広い市民になり、持論を考える際には幅広い証拠を考慮するようになる」という説を検証することにした。すなわち、「SNSで反対派閥の主張を目にする頻度を高めたとき、思想が軟化するかどうか」の検証実験を行った。
その実験結果を表した文が以下である。
自身のエコーチェンバーを出て何が起こったかといえば、考えのより良い競争ではなく、アイデンティティーの悪しきせめぎ合いだった。
すなわち、思想同士のぶつかり合いにより、思想はより硬化した。これは直観に合致しない結果である。
本書では、我々は無意識のうちに、他者の反応を伺いながら自身のアイデンティティーを形作っていることを示した上で、SNS(ソーシャルメディア)を「他者の反応の大きさを屈折させるプリズム」に喩えて原因を以下のように指摘する。
プリズムはその過程でこちらの目に映るものを避けがたくゆがめ、自己に価値があるという妄想を大勢に抱かせる。(中略)プリズムは過激主義者の自己理解をゆがめるのに加えて、相手方のアイデンティティーをもゆがめる。具体的には、ソーシャルメディア・プリズムは対立党派の人を実際よりも過激そうに見せる。
(中略)
プリズムは、自身の過激主義を合理的だと――あるいは普通だとさえ――思わせるのと同時に、相手の方をより攻撃的で、過激で、粗野に見せるのである。
これにより、自分の思想に自信を持ち、かつ相手の過激な思想からは自己防衛する方向に考えがシフトするのだ。
麻雀に置き換えた場合
趣味のエコーチェンバー性
麻雀に限らず、趣味は比較的エコーチェンバーに陥りやすい。なぜなら、趣味をともにする空間には基本的にアンチがいないからだ。また、普通は人がせっかく楽しんでいる趣味を否定する人などいない。さらには、麻雀は4人で長時間向かい合って行うゲームであるため、一種の連帯感が生まれやすい可能性も指摘しておく。
そこに現れたのが、例の「麻雀界は低俗」ポストである。
これには衝撃を受けた。なぜなら、自らのエコーチェンバーが破壊されたからである。そして、過激な思想からは自己防衛する方向に考えがシフトし、不快感が生じたのだと考えられる。
また、とつげき東北さんに多くの麻雀愛好家が反論のリプライをしているのも気になった。それを見て、思わず安心感を覚えたことも記憶している。つまり、自分の思想を強化しそうになったのだ。まさに、本書が指摘した通りの心理状態である。
中間層の意見
時が流れて、多くの人が意見を寄せた。
代表として1つ例を挙げると、これは日本プロ麻雀連盟の黒木さんのnoteである。内容としては、とつげき東北さんの意見に同意しながらも、麻雀界から離れようとはしていない。
これらの意見によって、あまりにも当たり前なことが理解しやすくなっている。
世の中には「麻雀大好き!老若男女に広めたいし、自分も真剣に打ち込みたい!」層から「麻雀大嫌い!こんな運だけのクソゲー消えたらいい!」層までが存在し、それらの思想はグラデーションなのだ。
本書でも以下のように示されている。
ソーシャルメディアに穏健派の声が上がっていないことは、プラットフォームに過激主義者が大勢いることよりも政治的分極化に寄与しているかもしれない。穏健派がいないと過激主義者が公の場での対話を支配できるからだ。
「麻雀好き派」と「麻雀消す派」のレスバを見てしまうと、思わずその中間に位置する人のことを忘れてしまう。それによって、自分も思わず極端な方向に偏ってしまうのだ。
しかし、アメリカの政治思想では穏健派は声を上げない(日本でも政治思想をなかなか語る人はいない)が、今回の件に関しては上に挙げたnoteのみならず、多くの中間層の方がコメントを書いている。これによって、自分が中間層にいるのを意識することは比較的容易くなったと言ってよいだろう。
意見の過大評価
ここまで、とつげき東北さんを「麻雀嫌いの極北」のように扱ったが、もしかするとこれもSNSによる印象操作なのかもしれない。本書ではこう述べられている。
リベラル派も保守派も自分の側と相手方との意見の相違を著しく過大評価していたのだ。それに、自党派内で見られる意見の相違の度合いを過小評価してもいた。
すなわち、思想を異にする人と同じくする人のどちらに関しても、多少は自分と意見が合致する箇所・相違する箇所があるはずだが、SNSでは「思想を異にする人との相違箇所」と「思想を同じくする人との合致箇所」が過大評価され、その反対は過小評価される。
そのため、とつげき東北さんが「麻雀嫌いの極北」のように見えるのは、SNSによって「麻雀嫌い」な部分が強調されているからかもしれない。もしかしたら真実は「なにかにつけて野球に例える上司に辟易している部下」のように、「なにかにつけて麻雀を賛美してくる人に辟易しているだけの人」程度の麻雀嫌いなのかもしれませんね(グラデーション濃淡の目測には誤差があります。これもまたSNSのせいです)。
結論、一連の言説で心に一瞬でもささくれができていた人は、
①グラデーションにおける自分の立ち位置の正確な把握
②周囲にも自分に近い立ち位置の人がいることの確認
③「麻雀嫌い」の部分を過大評価している可能性の考慮
によって、心を穏やかに保てばよいのではないだろうか。
終わりに
「じゃあ、お前さんはどこに位置しているんだい?」と問われると言葉に詰まる。「現代麻雀研究家」を勝手に名乗ってはいるが、私自身はプロではないからだ。
しかし、いわゆる「ある程度」知識があれば形になり(すなわち大損しなくなるまでの敷居が低く)、かつその場の臨機応変な判断で新たな発見ができる部分は面白いと思っている。また、戦術の変遷がゆっくりなのもよい。私はいわゆる「最近のJ-POPが分からない現象」に陥りやすい性質であるため、基本戦術がなかなか変わらないのは非常に都合がよい。まあ、結局死ぬまでやり続ける程度には好きなんだと思う。
なお、本論とは関係ないが、とつげき東北さんと思想を異にする箇所がもう1つあり……、
可愛いVTuberがめちゃくちゃ麻雀上手くなった後、正しいことしているのに不運すぎてものすごく不幸な目に遭うの、かわいそうで可愛くない?
そのため、私はVTuberには麻雀に打ち込んでほしい派です(グラデーションは認めます)。