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息をするように本を読む75 〜米澤穂信「王とサーカス」〜

 人は物語を好む。私もそうだ。
 物語は分かり易いほどいい。
 衝撃的であるほど、そして刺激的であるほど。

 現実世界にも映画や小説にも似た、いや、ときにはそれよりも驚くような物語が溢れている。
 それらはニュースとなって報道される。もちろん、取材してきちんと裏付けをとって、のことだ。(そうでない場合もあるかもしれないが、それは論外だ)
 だが、全ての事柄を全ての面から見て報道することは困難だ。いや、不可能だと言ってもいいだろう。
 視点を定めて書かなければ、記事はピントのボケた、結局何が言いたいのか非常にわかりにくいものになる。記者の主観が一切無しに書かれた記事、などというものは存在しないと言ってもいい。
 
 その場合、その記事は真実を伝えたと言えるのだろうか。事実ではあるのだろう。しかし、ある一方向からの事実は真実から隔たっていることがあり得るのではないか。そしてそれは送り手だけではなく、記事を読む受け手側の判断にも言えることだ。

 この物語の主人公は、太刀洗万智という28歳の女性。
 東京の新聞記者だったが、事情があってフリーのライターになった。
 記者時代の知り合いから声をかけられ、ある月刊誌にアジアの旅ルポを書くことになった。その下準備のために訪れたネパールでとんでもない事件に遭遇する。

 それは2001年に実際に起こったネパールの王族殺害事件。
 月恒例の王族の集まる晩餐会の席上で、国王や王妃を含む8人が銃の乱射によって射殺された。そして、その犯人は皇太子であり、しかも彼は犯行後に自殺を図ったという。
 ネパール政府の公式発表は混迷を極めて二転三転、一時は銃の暴発事故だ、などと言う、ちょっと受け入れ難い発表もあったりして国民の疑惑と不満を生み、暴動にまで発展した。
 死亡した国王が国民の敬愛を集めていたこと、国王とその弟(彼は「たまたま」この晩餐会には出席していなくて無事だった)との間に諍いがあったという噂があったこと、などがその理由らしい。
 
 太刀洗万智は、事件当夜半にそのニュースを知り、すぐに事件の取材を始める。
 
 その後、伝手を辿って取材を申し込んだネパール王宮の警備担当者で元軍人の男性に、なぜ日本人の記者がネパールの王族殺人事件を調べているのか、と聞かれた万智は言葉に窮する。
 
 この事件が日本で興味を持たれるのは、おそらく滅多にないそのセンセーショナル性のためだ。多くの読者はこの遠くの対岸の火事を、内心では面白がって見物するだろう。そして、やがては飽きて忘れてしまう。
 サーカスは娯楽としてただ消費されるだけ。それは、あるいは要人の暗殺、悲惨な大事故、紛争など、目を覆いたくなるような事件であっても同じことだ。
 無責任な聴衆のために自国の王族の不名誉な死を見せ物にするつもりはない、と元軍人の男性は言い放った。
 この言葉はずっと万智の心の中で燻り続ける。
 
 ジャーナリストが事件を取材して書くということはどういうことか。
 事件の真相を調査して真実を明らかにするのは警察の仕事だ。それは事件の原因と罪ある者(が存在する場合は)を明らかにして司法の手に渡すためであり、ジャーナリストにその権限と義務はない。
 ジャーナリストたちは言う。人には知る権利がある。私たちはその権利を守るために働いているのだ、と。
 
 しかし、その権利は何のために使われるのか。自分には直接関係ない悲惨な事件を視聴し、自分たちの安全を実感するため? 同様な事件に巻き込まれないように自戒を得るため? それもいいだろう。もしかしたらただの好奇心から、かもしれない。それも仕方のないことなのだろう。
 ではしかし、当事者たちにとって真実を知られない権利は、そしてまた、知らないでいる権利は、存在しないのだろうか。

 事件を取材して書かれた記事がもし間違っていたら当然のこと、たとえ事実だったとしても、それによって受けなくてもいい深い傷を負う人はいないのか。
 記事になったことによって、その後に起きるさまざまな思いもよらない余波にまで、責任は取れるのか。
 
 ずっと自分自身に問い続けながら取材を続ける万智の前に、新たな事件が起きる。
 その事件の真相が見えたとき、万智は自分の心の中の問いに答えを出す。まだ自信はないけれど。綱渡りだけど。ジャーナリストとして生きていく覚悟を見つけるのだ。

 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 事実を伝えることは出来るかもしれない。しかし、真実を伝えることは難しい。
 事実の全てを伝えることは不可能だ。いくつかの事実のどれを選択し、どう並べるか。それによって伝わる真実は変わってしまう。受け取る側の条件によっても変化する。全く逆転することもある。
 送り手の意図したとおりになる場合も、思わぬ化学反応が起きる場合もあるのだ。

 人は、ともすれば自分の都合の良いものしか受け入れない。自分が『たまたま』見つけた自分の思い通りの真実ばかりを収集する。
 だが、集めたもの、それのみが真実を語るとは限らないのだ。恐ろしいことに。

 万智がガイドの少年と共に、あるいは1人で歩くネパールの街の風景はとてもリアルで、まるで自分もそこに行ったような臨場感が感じられた。
 米澤さんは人の感情の細かな動きと風景をリンクさせて表現する名手だと思う。

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