『カメラを止めるな!』という宇宙の采配
認めたくはないけれど、なんでこの人はここにいるんだろう?とか「うわ、こういう人って絶対にお荷物になるんよね」と人をバカにしている自分がいた。この映画を見るまでは。
「人には使命があって、それをするために生まれている」
そう話す人がいる。
わたしは「実は人生に使命はない」という説に一票を投じる人間だ。だからといって、いつも自由に意気揚々としているわけではない。本当は「これが自分の使命だから」とまっすぐに貫いて生きている人がうらやましい。
なんのために生きているんだろう。
ゆれてゆれて泣き出したくなる夜もあるのだ。
それが、映画『カメラを止めるな!』を観て、「ああ、こういうことなのか」と腹落ちしたのは予想外のギフトだった。
映画に出てくる一人一人の顔と行動、ふるまいが、今もこの胸に生き生きとしている。
善人もいなかったし、悪人もいなかった。
みんな気持ちがいいくらい、自分の都合で生きていた。
周りの人の迷惑なんて顧みず。逆に顧みている人は、溜め込む自分をなだめながら生きていた。自由だ。
わたしはとても長い間、人に迷惑をかけることは悪で愚かしいことだとずっと思ってきた。
その考え方自体は悪いものではないけれど、自分を強烈に痛めつける。
その刃先は常に自分にも向けているので、「こいつ、なんでここにいるんだろう。迷惑だな」と思われないようにビクビクして生きることになる。
「絶対に迷惑をかけちゃいけない」と、自分をきゅうくつに歪める。それはわたしの人生における真実の一部だった。
おかしい。そう思い始めたのは後半になってからだ。
ゾンビ映画の撮影の話だと思って観にきたのに。
なんだよ。
なんだよ。
この世界に「迷惑」なんて本当にあるのかよ。
ないじゃん。そんなの本当はどこにもないじゃん。
あれ?欠点とか長所ってなんだっけ?
誰が名付けたんだろ、そんな名前。
あれ? 人間ってこんなに魅力的な生き物だったっけ?
そんな言葉が頭をぐるぐる回りだし、
自分の世界が、スクリーンが、溶け始めた。
気づいたら、笑いながら泣いていた。
最初は吹き出す声を何度も口で押さえていたけれど、途中からはもうどうでもよくなってしまった。暗闇の中で、隣のサラリーマンの笑う声が聞こえる。
なんでその人がその人であるだけで、
こんなにも面白いんだろう。
その人があるがままに生きて、我を失ったり、泣いたり怒ったりしている姿に、なんでこんなに笑ってしまうんだろう。
そしてどうして、
こんなに愛おしく感じるんだろう。
わたしもこんな風に生きたい。
いや、ずっとそうして生きてきたんだ。きっとこの人たちのように。
それでいい。それでよかった。
そっか、大丈夫だったんだ。
そう思うとまた泣けた。
スクリーンに登場する人たちに割り振られた、そこで果たすべき明確な使命が見えた。
でも誰一人、その空間で本当に与えられている使命を自覚していた人はいなかった。
なのに、みんな完璧にやり遂げていた。
やり遂げようとがんばることなしに。
ただ、自分の在るように在っただけ。
それが、全員でちゃんとひとつになっていて、最高の奇跡をつくるのをわたしは見た。
一人欠けても成り立たない、完璧なこの世界。
わたしはそんな宇宙の不思議なつくりと、個の圧倒的な美しさに見とれて泣いた。
いま自分のいるこの世界を、神様みたいな高い視点で眺めながら、その面白さと美しさ、あったかさを感じ、泣きに泣きに泣いた。
最後の一瞬まで。
そんな96分だった。
***
エンドロールが終わり、劇場内は一気に明るくなった。
ついさっきまで一緒にゲラゲラ笑っていた見知らぬ隣のサラリーマンが、チラリとわたしの顔を見る。その視線に耐えられず、思わず立ち上がった。
「すいません、すいません」とまだ座っている人たちの膝をかすめ、慌てて通路に向かう。
通路をわらわらと歩く人たちの群れの中で、呆然とした。
いま右から出てきた松葉杖の男性も、通路の端で自撮りをしてるおじさんも、目の前のカップルも。
どうしよう。全員が役者にしか見えない。
まいったな。
わたしはまだ、映画の中にいる。
目に映る誰もが、今やわたしのスクリーンに映る映画のキャストだ。
その映画のセットのような映画館を出て、エスカレーターに乗った。
家のベッドに潜り込むまでには、少しは醒めるかもしれない。
夢から醒めて、また別の夢を見る。それもまたいいかもしれない。
その前に最高においしい日本酒を飲みに行こう。
わたしはゆっくりと歩いて、駅に向かった。
最高に幸せな夜だった。