母というひと-057話
普通と自称する母の、普通とは言い難い人生を綴っています。000〜047話は、母の人生の前提部。051話からが、本編と言える内容です。
仕事を終えてダッシュで実家へ向かい、チャイムを鳴らしてすぐ玄関のドアを開けようとした。
ガチリ。
いつもなら私が行く時には前もって鍵を開けられているはずのドアが、閉まったままになっている。
もう一度チャイムを鳴らすと、少し経ってからやっと母が解錠してくれた。
その顔を見て、ギョッとした。
肌色は青く、黒目だけが妙にギラリとして眉根に深いシワが刻まれ、なんというか、怨念を漂わせるような鬼気迫る表情だ。
かける言葉を失い、唾を飲み込んだ。
「来てくれたかね」
ボソリと呟いて、頷く私に目も合わせずリビングへ戻って行く。
一気に体が縮んだように見えた。背を丸め、足を床に擦るような歩き方をしている。
その頃、実家のリビングには、大きな一枚板のテーブルを出しっぱなしにしてあった。
そこへ積まれていたダンボールは一応、床に降ろされている。
窓際の私の定位置に座ると、母が足音もなく冷えたお茶をヤカンから注いで持って来た。
「なんか食べるかね」とは聞かれたが、とてもそんな気になれなかったので断った。
「母さん……体は、大丈夫?」
やっとそう聞くと母は「ああ」と低く声を漏らしたがまともに返事は返してこなかった。
私や兄が嫌っている、ヒステリーを起こしてどうにも感情がセーブできない時の歪んだ表情だ。
今にも爆発しそうな不安定さが見て取れる。だが声だけは低く淡々として、そのアンバランスさが気持ち悪かった。
「荷物、すまんなあ。あんた少し片付けてくれたんやね」
お礼を言っているように聞こえるが、これはいつもの母のフェイクだろう。
頼んでいたことが実行されてないことへの苛立ちをストレートにぶつけられない時、妙な部分を褒めて不快を伝えてくる時があるのだ。
無言の皮肉を受けて、つい言い訳が口を突いた。
「いや、父さんが、母さんは絶対戻ってくるから片付けるなって」
父さん、という言葉に母の神経がピクリと立つ。
「そうかね」
低い声。
私はまた唾を飲む。お茶は冷たすぎて飲み心地が悪く、口をつける気になれないでいた。
そう言えば、部屋も妙に冷たい。暖房はつけているのに。
「あの人はなんか言いよったかね」
"あの人"という言い方が奇妙だ。
母は父のことをいつも「お父さん」と呼んでいる。ガチガチの封建主義を貫く夫の、三歩どころか十歩も二十歩も後ろを黙ってついて歩いてきたような母。
それが、「あの人」なんて空々しい呼び方をするとは。
「何って……」
「私のことを、なんか言いよらんかったかね」
父のあの軽い感じを伝えて良いものか分からなかったが、嘘をつくわけにも行かない。
せめて少し控えめに伝えようという気持ちで、「母さんは必ず帰ってくるから大丈夫だって言ってたよ」と言うと、母は伏目のまま言葉を返してきた。
「帰ってくるわけないじゃろがえ(ないでしょうが)。
私はあの人に「死んでやる」って電話して家を出たんじゃけ。
何が "必ず帰ってくる"かね」
声が震えていた。
「あの人は警察に行かんかったんかね。捜索願とか出しとらんのね?」
答に詰まった。
「……出した方が良いとは言ったんだけど」
「出さんかったんやね。警察には行ったんね」
「…………………いや」
なんだか詰問を受けているようで息が詰まる。
「もう、許さん」
母の目は真っ赤になっていた。
泣いているんじゃない。怒りでだ。
「あんた、聞き苦しい話やろうけど聞いておくれ。
あの人はな、浮気しとるんじゃ」
私は間抜けな声で、ああと唸るしかなかった。
(分かってるよそれくらい)という声をグッと飲み込むのが精一杯で。
「前から時々夜中に電話したら出らん時があってな。寝とって気付かんかったとか後で言われるけん、そんなもんかと思っとったんやわ。
でもな、あの日はお兄ちゃんのことで相談があって、ちょっと話をしときましょうと思ってな。でも何回も電話するけど出らんのよ。
まだ寝るには早いし、タバコでも買いに行っとるんじゃろうかと思って一時間くらいしてまた掛けたら、出んの」
それで思い出したが、父は単身赴任を始めてすぐの頃から、仕事から帰ったらこちらに電話を掛けてくるのを「電話代が勿体ない」と、ワンコールだけ鳴らして切るようになっていた。
あの習慣はどうやらまだ続いていたらしい。
「寝る前の電話は鳴ったんよ。その後なのに出らんけん、もしかして倒れたんじゃないかと思ったら胸がドキドキして来てな、新幹線に間に合ったけん急いで家に行ったと」
母の右手が、話しながら無意味に台拭きを握ったりテーブルを拭いたりして落ち着かなく動いている。
「そうしたらな。おらんかったんよ」
父の家は、玄関を開けたら目の前にリビングがあり、目隠しもなく奥のキッチンまでまっすぐ見通せる単純構造だ。その左に六畳の部屋が二つ、右の奥に洗面と風呂、トイレ。
玄関とは言うが靴箱もなく、ドアを開ければ靴の数だけで父の在不在はすぐに分かる。
「布団も敷いとらんかった。それで私はピンと来てな」
ここからが、ちょっと凄い。
母は父の帰りをもちろんそのまま待つのだが、いざ父が玄関に鍵を差し込んでドアを開けようとした時、とっさに自分の靴を持って奥の六畳の部屋に隠れたらしい。
明け方に鼻歌なんぞ歌いながら帰ってくる自分の夫の姿を、息を潜めて影から確認したというのだ。
父は何も気付かずに奥へと進み、やっと母に気づいた時には文字通り飛び上がった。
「なんだお前!なんでいるんだ!!」
やましい行為を見られていた時、普段偉そうにしている人は大体、大声をあげて相手を怒鳴りつける。
父の反応は、そのタイプの典型だった。
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