私の、いじわるおばあちゃん。
ずっと、サザエさんのフネさんのような『優しいおばあちゃん』に憧れていた。
ニコニコして、そうかいそうかい、と何でも受け止めてくれるような。
しかし私のおばあちゃんは、どちらかというと『いじわるばあさん』に近かった。
漫画のように悪戯はしないのだが
おばあちゃんはとっても厳しかったので
『おばあちゃんは、いつも私に意地悪をしている!』と思っていたので
いじわるばあさん、を見た時に
意地悪そうな顔をしたおばあちゃんが、うちのおばあちゃんにそっくりだ!と思った。
私のおばあちゃん『澄子』は大正生まれ、福岡のど田舎育ち。
幼い頃かけっこで負けたくないが故に、スタートと同時に隣の子を肘で突き倒していたらくらい、自分にも周りにも厳しく負けん気が強い人だった。
当時の田舎では珍しい女性の市会議員の母を持ち、中学校の教員を退職後、民生委員や保護司を勤めていたおばあちゃんは、正義感も強い人だったと思う。
小さい頃から私にも厳しく、座り方や友達付き合い、服装にも口を出してくるので
『また澄子節が始まった!』と正直鬱陶しく
離れて暮らしている従姉妹たちがキャミソールに丈の短いスカートを履いて夜遅くまで遊んでいる姿を、羨ましく思っていた。
(うちだったら1時間正座で説教案件だ)
一方で、他の家族には話さないことを、よく私に話をしていた。
夕食の後、隣に座っている私に長話をするのは日課で、自分の昔の苦労話から、社会がどうあるべきかの理想論まで多岐にわたる話を聞かされた。
祖父との結婚式で、向こうの親族から『嫁が鬼にならないように』と角隠しを上から抑えられたことが、すごくショックだったこと。
子育てをしながら産後休暇もなく教員に復帰したこと、うまく母乳が出ずに『破れ乳』と曽祖母に言われてすごく傷ついたこと。
息子(父)の運動会を見に行きたいがゆえに
職員会議で同僚に"代返"を頼んで、こっそり山を越えて隣の中学まで見に行ったこと。
胸のしこりの手術後にやっと1人で家に帰りつき、寝床まで行き着けずに床で寝そべっていると
祖父からそのだらしがない姿はなんだ、と言われてすごく悲しかったこと。
思い返してみると思った以上に、
誰よりも澄子の胸に秘めた歴史を知っているのは私だと気づく。
また、学校の終業式の朝には必ず
仏壇の前に座らされ、
『終わりの日は一番気が緩んで魔が入りやすいき、兜の緒をしめて、気をつけて行くんばい。』
と、出陣前の送り出しのように言われていた。
大事な試験や用事がある日の前には
『厄落とししちゃろ!』と、
こつんと頭を軽く叩いてくれた。
風邪を引いた日には
共働きの両親の代わりに看病してくれ、
鍋焼きうどんを作ってくれた。
『こどもを家に1人にしちゃいかん』と
家にはいつもおばあちゃんがいてくれた。
私は厳しいおばあちゃんが鬱陶しいと思いながら結局、27歳まで実家に住んでいた。
27歳の夏、結婚したいと思う人ができた。
彼は個人事業主で電気工事をしていた。
公務員思考の強いうちの家族は
安定さがない、と大反対。
結局、その年の冬に私は彼の赤ちゃんを
フライングで授かり
我が家は戦々恐々となったのだ。
彼が慣れないスーツを着て汗だくになりながら
挨拶に来た日。
米寿を迎えたおばあちゃんは、長年連れ添ってきた祖父を見送り、転んで足を痛め、段々と気弱な事を言うようになっており『澄子節』を聞く機会も減っていた。
そのおばあちゃんが、我が家の客間で
久しぶりに全身に気を張り詰め
ぐっと睨みを聞かせ、その場の誰よりも存在感を醸し出し正座をしていた。
彼が一通り自己紹介を終え、『この度は申し訳ありませんでしたぁぁ!』と土下座をし謝った後
『まぁまぁ顔あげて』と、彼の勢いに怒りを払拭された父が声をかけるや否や、おばあちゃんのドスの効いた鋭い声が響いた。
『あんたね、のりちゃんを悲しませることしたら、あんたン家に押しかけて、私があんた刺しにいくきね!』
彼は、ぐっと体を反らせ、さらに顔を引き締めて
『はい!』と返事をした。
おばあちゃんはその声を聞くと
『良し!』と、言い放つと目を閉じ、その後はずっと黙っていた。
それから私は3人の子どもを産み
おばあちゃんは、3人目のひ孫が3歳になった夏の日8月の早朝に、老人ホームのベッドで静かに息を引き取った。
コロナ禍真っ最中の時期で、最後の1年はほぼ顔を合わせることもできなかった。
だけど、私はおばあちゃんの訃報を聞いた時、看取れなかったことに憤りも悔しさもなかった。
おばあちゃんが自力でトイレに行けなくなり、両親が自宅での介護を諦め、施設に入ることが決まった時、私はこうなるだろうなぁ、となんとなく感じていたので
見送る前に、自分ができる限りのことを全てやると決めた。
ちょこちょこ実家に顔を出して
おばあちゃんにご飯を出したり
着替えを手伝ったり
ポータブルトイレの掃除をした。
その度におばあちゃんは申し訳なさそうな顔をして
『あんたにこんなことさせて、すまない』
と言ったのだが
私はとても嬉しかったのだ。
幼い私の服を着せてくれたであろう
おばあちゃんに、今は私が服を着せてあげれること。
幼少期少食だった私が、心配だからと母に無理矢理ご飯を詰め込まれ、母がいないところで
苦しくて吐いてしまった時に
どこからか駆けつけてて
『全部吐いてしまい、楽になるき』と
背中をさすってくれたおばあちゃんの、
トイレの世話ができること。
嫌だなぁという気持ちが1ミリもなかったとは言えないが、それ以上に、喜びの気持ちが湧き上がってきた不思議は、よく覚えている。
そして、おばあちゃんが施設に行く前の日。
痴呆も出てきて、こちらの話もよく分かっているのかわからなくなっていたのだが
私は、ずっと伝えたかったことを伝えた。
『おばあちゃん、私おばあちゃんの孫で本当に良かったよ。』
照れ臭さを必死に抑え
棒読みのようになりながらも
ずっと言いたかったことを言った。
私は澄子のシワシワの手を握った。
澄子はうんうんと頷き、ニコニコと笑っていた。
扉の影で、澄子の息子である父が
こっそりと泣いていた。
『これが最後になるだろう』
私はなんとなくだが強い確信があった。
おばあちゃんが亡くなる直前くらいに、
こんなことがあった。
目に見えないことを感じたり
わかる友達がいて
話の流れから自分の家族の話になり
なんとなくおばあちゃんの厳しい面に対して
受け入れられずにいた部分があった私は
『おばあちゃんの厳しさは本当こりごりだった』
と、言いつけを守らなかった時に
反省文を書かされて嫌だった思い出を
話していた。
そのあと友達から
携帯にメッセージをもらった。
『あの時、のりちゃんのおばあちゃんからの声が聞こえてね。
そんなつもりはなかった、可愛くてたまらなくて厳しくしちゃった。ごめんね』
って言ってたよ、と。
おばあちゃんは亡くなる前、ほとんど眠っていたので
きっと、眠っている間に会いにきてくれていたのかもしれない。
そこで、思わず孫の辛かった気持ちを聞いて、思わず友達に断りを伝えてしまったのだろう。
私はその言葉を読んで
涙が溢れたと同時に、
プツっと何かが解けたような感覚とともに、
ある記憶が鮮明に甦ってきた。
雨の日、おばあちゃんの部屋の畳の上で
小学生くらいの私がおばあちゃんに膝枕をしてもらってる。
障子が開かれいて、縁側から雨降る庭の景色を私はボーっと眺めている。
おばあちゃんは、珍しく穏やかな優しい声で
私の髪の毛を撫でながら
『のりちゃんは、本当によくがんばりよるねぇ。えらい、えらい。』
と語りかけている。
そんな記憶、今まで全くなかったのに
まるで映画を見ているように
私の脳内に蘇ったのだ。
すっかり忘れていたのであろう
記憶の断片。
そうそう、ちゃんと、優しいおばあちゃんは『在った』のだ。
あぁ、本当に嫌なくらい厳しくて
鬱陶しくて面倒くさいおばあちゃんだったけど
私、やっぱりあの人の孫でよかった。
そして、後悔なんてものはなかったけど
澄子のお葬式では、目がぱんぱんに腫れるまで泣いた。
おばあちゃんが亡くなった後
家族や従姉妹と集まった時
よく、『おばあちゃんは凄かったよね』と
話が弾む。
厳しくてうるさくて、
短気で激しくて
『理想の優しいおばあちゃん』とは程遠いけど
私のいじわるおばあちゃんは愛されていたんだなぁと、不思議な感覚と同時に温かい気持ちになるのだ。