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レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ 60

「そういった人が、他にもいるの・・・?」
「ええ。ごく稀にですが。」
 侯爵夫人は黙って考えているようだった。しばらくすると、手元にある本に目を落としながら、小さな声で話し出す。
「これは独り言よ?・・・わたくしは小さな頃から、別の人格の記憶がはっきりとあったの。思い出すのも辛い、忌々しいものだった。」
「・・・。」
「忘れたころに鮮明な夢を見て、つい先ほど起こったかのように思い出す。そのような生活がずっと続いて、わたくしは精神的に参ってしまったこともあった。誰かに相談したくても、信じてもらえないと分かっているから相談することも出来なかったの。大きくなるにつれて、それが前世と呼ばれるものの記憶だと知ったわ。何故、神様がわたくしに前世の記憶を残したのかなんて分からない。」
「・・・」
「結婚してから、ようやく落ち着いてきたのだけれど・・・最近になって、また辛い夢ばかり見るの。あの日、図書館で倒れてしまった前にもその夢を見たわ。どんなに忘れたくても、忘れないでほしいと縋りつかれるようよ。」
「・・・」
「それにしてもよくわかったわね、探偵さん。今まで、誰にも言われたことなんてなかったのに。レディ・ジョーカーのいるお店も、運の良い方しか入れないのよ。だって、わたくしの気まぐれで開けているお店なのですもの。」
「あなたがレディ・ジョーカーと同一人物だということは、アイヴァー伯爵の夜会の時には分かりませんでした。図書館でぶつかったあなたを見て、もしやと思ったのです。そして、先ほど会って確信しました。どんなに言葉を崩しても、その美しい仕草は変えられませんよ。」
「・・・そう。わたくしが小さな頃に習った教師は見抜けませんでしたけれど。」
「それは、その教師の感性が乏しいのです。あなたのその仕草は宝物ですよ。それは多くの人を捕らえて離さないほど。おそらく前世でも相当な努力を積んでこられたのだと思います。苦しい思い出に囚われるのではなく、あなたの努力にもっと自信を持てたら、夢で苦しむことも少なくなるかもしれません。」
「・・・善処するわ。」
「・・・ところで、お店はもう閉めるのですか?」
「ええ。主人が生きているうちに、なるべく一緒にいたいものですから。それに、もう勝手に好意を寄せられるのも御免だわ。最初は主人がいなくても生きていけるようにするための練習でしたけれど、もう潮時だと思っているの。いつの時代も、女が一人で生きていくのは難しいものね。」
「あなたなら、きっと一人でも笑顔でいられると思いますよ。それは、あなたが今まで侯爵様に向けていた誠実さを皆が認めているからです。そのような方を、周りは放っておかないでしょう。」
「・・・そうかしら。」
「ええ、きっと。それに、お店を閉めると聞いて残念に思いますが、同時に安心もしています。」
「あら、どうして?」
「先ほど話した青年ですが、最初はお店で見かけたあなたを好きになったようなのです。このまま仕事を続けていれば、いつかあなたのことに気づくかもしれません。何にしても、用心しておいた方が良いでしょう。」
「あらあら、困った人ですこと。」
 侯爵夫人は困ったように笑った。最初のような固い表情ではなく、随分と柔らかい表情をするようになった。
「そういえば、あなたはいつまでイギリスにいらっしゃるの?普段はパリにいらっしゃるのでしょう。」
「もう仕事は終わりましたので、帰りの切符が取れたら帰ります。」
「そう、寂しくなるわ。今度は楽しい話をしましょう、主人と一緒に。」
 ユーグは微笑んで頷いた。イギリスに来たときの用事がまた増えてしまった。それも、楽しみな用事が。
 ユーグは挨拶し、馬車の止めてある門のところまでやってくる。門のところには、サマーセット侯爵とスコット公爵が待っていた。
「もういいのかい。」
「はい。私はフランスに帰りますので、お別れの挨拶をいたしました。」
「もう帰るのか。」
「はい、仕事が終わりましたので。」
「残念だ。君になら妻を任せられると思ったのに。」
 ユーグは困ったように侯爵を見た。
「誤解ですよ、サマーセット侯爵。私は、仕事のために何日も平気で家を離れる人間ですから。それに、侯爵夫人はあなたを愛しておられます。今度会った時は、あなたと侯爵夫人の3人で話したいとおっしゃっていました。」
 侯爵は、馬車に乗り込む二人を見守った。
「サマーセット侯爵、今度は我が家へ招待します。是非、侯爵夫人とお越しください。侯爵夫人と妻は、話が合いそうだ。」
 スコット公爵はそう言うと、馬車を出発させるよう命じた。離れていく馬車に、サマーセット侯爵が大きく手を振る。
「若者と、また約束をしてしまった。」
 隣にいた執事に、侯爵はぽつりと言った。
「ええ、約束を果たすまでお元気でいなければいけませんね。」
「まったくだ。」
 厳しい顔をしているが、その口元は少し嬉しそうに笑っていた。

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