輪舞曲 ~ロンドン⑪~
確かに、ヘンリー様がアン様に夢中だったのは、結婚なさるまでだったように思います。すべてを手に入れることのできる御方にとって、手に入らないものというのは、それだけで価値があるものなのでしょう。
何度も見かけるようになったわたくしを、ヘンリー様は少しずつ気にかけてくださるようになりました。そして、温かい言葉や贈り物も戴くようになりました。それは身に余るほど光栄ではございましたが、けして浮足立つようなものではございません。なぜなら、わたくしは、何人もの女性に甘いお言葉をかけるヘンリー様を見てきたからでございます。おそらく私もそのうちの一人でございましょう。それに、わたくしは、ヘンリー様を『敬愛するキャサリン様の夫』という目でしか見られません。ですから、周りの人がどんなに騒いでも、ヘンリー様に対して『尊ぶべき御方』という思いしかないのでございます。
しかし、どこが気に入ったのか、ヘンリー様は益々わたくしを気にかけるようになりました。ヘンリー様のわたくしへの態度を見て、周りの方はわたくしを丁寧に扱うようになりました。わたくしはとても居心地悪く、いつも俯いておりましたが、ヘンリー様は笑いながら「こういったことにも慣れてもらわなくては」とおっしゃるのです。父や兄からは「よくやった、ヘンリー様はおまえに夢中ではないか」と褒めてもらうのですが、わたくしは何もしておりません。
家族が「あわよくば娘をヘンリー様の妃に」と思っていることは分かっておりました。しかし、わたくしは気が進みませんでした。妃という立場、特に『世継ぎを産む』ということに対して、自信がなかったのでございます。ヘンリー様は、子沢山な我が家を見て期待をされているのでしょうが、わたくし自身は身体があまり強くありません。侍女としてお仕えしている時も、幾度も体調を崩しております。それに、わたくしはそこまで若くもないのです。ヘンリー様が望まれるほど、何人もの出産に耐えられそうにないことは何となく分かっておりました。
いつかヘンリー様は心変わりなさるかも、アン様のような魅力的な女性が現れるかも・・・そのような願いは叶うことなく、ヘンリー様はわたくしを逃がしてくれそうにありませんでした。
ある日、夜会が開かれることになりました。以前から予定されていたものではなく、その日の朝に急に決まったことでしたので、宮殿中が大騒ぎでした。このところ、ずっと不機嫌だったアン様が上機嫌で仕度をしております。この日ばかりは急に決まった夜会ということで、アン様が細かく確認して周りの者たちを困らせることもありません。わたくしは忙しく動き回り、悲しい気持ちに蓋をしました。
その日は、キャサリン様がお亡くなりになった日でございました。それを祝うために、宮殿では夜会が開かれたのでございます。
妃となる御方とは思えないほど大きな声で笑い、はしゃぐ様子を見て、わたくしの身体の中の何かが壊れる音がしました。
わたくしは、その日から、心が何かで覆われているように何も感じなくなってしまったのです。
次の日から、わたくしが俯くことはなくなりました。それに気づいた人々がこそこそと何か話しておりましたが、わたくしは何も感じませんでした。アン様に何か言われても、何も感じません。そんなわたくしに気づいたのか、初めてアン様にまじまじと見られましたが、真っ直ぐに見返しました。
アン様は、わたくしの胸元を飾るヘンリー様の紋章がついた首飾りを見て激高なさいました。そんなアン様を見て、わたくしは「なんて恐ろしい御顔」と思うだけでした。アン様に扇子をぶつけられたり殴られたりしましたが、逃げようとはしませんでした。ヘンリー様に戴いた首飾りは引きちぎられましたが、それを見ても残念だとは思いませんでした。
わたくしは心を無くしてしまったのではないか、と思いました。しかし、それのどこが悪いことなのでしょう。キャサリン様がいなくなり、宮殿での生活は辛いことばかりです。家族は自分たちの出世のために、そしてヘンリー様からは世継ぎを産むために、わたくしに妃になれとおっしゃる。わたくしの望みなど、この先、何一つ叶うことはないのでしょう。
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