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レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ㊹

 ユーグがいつものようにロンドンの街を歩いていると、いつも明かりがついていない場所から光が漏れていることに気づいた。近づいてよく見ると、オリバー氏から教えてもらった店のようだ。ユーグはどきりとして、一瞬店に入るべきか悩んだ。オリバー氏を呼ぶべきか、それとも、中に入るべきか・・・。ただ、オリバー氏を呼ぶあいだに店が閉まってしまうことも考えられるため、ユーグは一人で店の中に入ることにした。
 古い木の扉を開けると、中には白いシャツにタイを結んだ背の高い男が立っていて「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。
「おひとりですか?」
「はい。」
「それでは、どうぞ。」
 男の後ろにある小さな扉を開けると、中は多くの絵画で飾られている、貴族の客間のような空間が広がっていた。ただ酒を出すだけの店とは思えない、王族の隠れ家と言っても過言ではない調度品で溢れている。ユーグは圧倒され、ふらふらと近くにあった椅子に座ろうとすると、店員の男に「こちらにどうぞ」と案内された。ユーグの他にも何人か客はいて、思い思いに酒を飲んでいる。オリバー氏が言ったように、中央には大きな丸いテーブルが置いてあり、その周りを囲むようにして椅子が並べてあった。
「ご注文は?」
 若い男の店員が、近くに注文を取りに来たのでスコッチを頼んだ。店の中は静かで、騒ぎ立てる客はいない。先に入っていた客たちも一人で来ていたようで、客同士で話し込む様子も無いように見られた。
 ユーグはしばらく一人で飲んでいたが、自分の後に客が来る様子はなかった。よく見ると、中にいる客は自分を入れて5人のようだ。店員たちもゆったりとしていて、今日はあまり込み合う日ではないのかもしれない。オリバー氏を連れてくればよかったか、と思い始めたころ、辺りに温室で咲く花のような香りがして、一人の女性が現れた。
 その女性は目元に仮面をつけていて、美しい臙脂色のドレスに身を包んでいた。首元には大粒の真珠の首飾りをつけている。彼女がレディ・ジョーカーか、と思うのと同時に、その圧倒的な艶やかさに思わず見入ってしまった。
「今夜もようこそ。皆様、グラスをお取りになって。」
 彼女の涼しい声が、静かに店内に響いた。
「「レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ」」
 店にいた客たちが、一斉にそう言ってグラスを持ち上げる。ユーグも遅れをとるまいとグラスを持ち上げた。レディ・ジョーカーと呼ばれた女性は、ほんの少し唇の端を持ち上げ、グラスに入っていたワインを一口飲み込んだ。

 今夜は客が少ないせいか、女性は一人ひとりと話し込んでいた。一人の客が「しばらく店が閉まっていたようだけれど、どうしたんだ」と聞いている。
「少し忙しかったのよ。」
「そうか。このまま店を閉めてしまうのかと心配したよ。」
「まあ、御心配ありがとう。でも、いつまで続けるかはわからないわ。」
「えっ!何かあったのかい?」
「ええ、少しね・・・いろいろなことがあって、続けられるか分からなくなってしまったの。この店は大好きだから、残念だけれど。」
 彼女の言葉に驚いて、店にいた客たちも次々と話しかけた。
「そんな・・・もうここには来ることが出来ないのか。」
「そうね。いつまで続けられるかわからないわ。ひょっとしたら、明日にでも閉めてしまうかもしれない。」
「どうしてだい?何か力になれることがあれば言ってくれ。」
「ありがとう。でも、これは仕方のないことだと思うわ。わたくしの家族が
少し前から体調を崩しているの。わたくしが家を空けると心細いようだから、こちらに顔を出すのが難しくて。誰かにこちらを引き継いでもらうことも考えたのですけれど、潔く店を閉めてしまおうかと思っているの。」
 彼女がそう話すと、客たちは仕方が無いと言った様子を見せた。他の誰かに引き継いだとしても、彼女に会いに来ているようなものなので店に通う意味はないし、そのことを彼女も分かっているからこそ店を閉めようと決めたのだろう。もともと客を多くとって儲けようと思っているわけでもなさそうだし、金銭的なことが理由ではなさそうだ。彼女の言う、家族のためという理由が本当かどうかは分からないが、あながち嘘ではないかもしれない。
 客たちは口々に別れを惜しみ、彼女と話し込んだ。やがて彼女がユーグの近くまでやってくる。少し甘いその香りに、頭がくらくらするようだ。
「こんばんは。」
「こんばんは。こちらの店を閉められるそうですね。」
「ええ。続けたい気持ちもあるのだけれど、ちょうど良い頃合いかと思っているわ。」
「そうですか。残念です、とても素晴らしい店なのに。」


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