レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ 59
そのひとは、木の陰に置いてある椅子に座って本を読んでいた。白いドレスを着て真剣な表情をしている彼女は、少女のように見える。
ユーグが隣に置いてある椅子に座ると、傍にいた侍女がそっと離れた。何かおかしいと思ったのか、女がふと顔を上げる。
「先日は失礼しました。お身体の調子はいかがですか。」
「まあ・・・!」
女は驚いたような顔をしてユーグを見る。丸く見開いた焦げ茶色の瞳が美しい。
「わたくしこそ、助けていただいてありがとう。屋敷まで送ってくださったと、侍女から聞きました。おかげさまで元気になりました。心配してくださってありがとう。」
「それはよかったです。」
ユーグは微笑んだ。
「今日は、どうしてこちらに?主人に用かしら。」
「ええ、あなたのことで。」
「わたくし?」
「はい。アイヴァー伯爵家の夜会で、あなたに一目惚れをした男がいたのです。私に侯爵夫人を紹介してほしい、思いを伝えたいとお願いされたのですが、何をしでかすかわからない男なので侯爵に伝えに来ました。もちろん、侯爵夫人は紹介できないと断りましたのでご安心ください。」
ユーグの話を聞き、侯爵夫人は嫌そうな顔をした。
「迷惑な話ね。教えてくださってありがとう。」
そう言って、両手をそっと重ねた。ユーグは、その仕草をじっと見つめる。
「何かしら?」
「いえ、あなたと会ってお話しした時のことを思い出していました。」
「前に?そうだったかしら。」
「覚えていないでしょうか。」
「夜会では、いろいろな方と挨拶するものですから・・・。」
「夜会ではありませんよ。」
「・・・では、どちらかしら。」
「レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ」
囁くようにユーグが言うと、侯爵夫人は、驚いた顔もせず見つめる。
「仮面を外しても、あなたは美しいですね。」
「・・・」
「あの男が一目惚れするのも、分かる気がします。」
「・・・やめて頂戴、何も嬉しくないわ。殿方に好意を寄せてもらうために、あの店を開いたのではなくてよ。」
侯爵夫人は睨みつけるようにユーグを見る。よく見ると、手が小刻みに震えているのが分かった。
「あなたが、どうしてあの店で働いていたのかずっと分からなかったのです。他にも疑問に思うことはいくつかあって、ずっと考えていました。誤解しないでください。これは私の純粋な興味で、あなたへの好意ではありませんから。」
「・・・」
「先日、図書館で倒れたあなたを送り届けたあと、再び図書館へ戻りました。図書館の職員も驚いていましたよ、急にあなたが外へ行ったきり戻ってこないと言って。私が事情を説明し、直前まであなたが読んでいたという本を見せてもらいました。」
「そう、本は面白かったかしら。」
「ええ、とても。書いてある文字は分かりませんでいたが、あなたを案内してくれた男性が親切にも教えてくれましたよ。レディ・ジェーン・グレイについての話だったのですね。」
侯爵夫人は黙って話を聞いている。その表情からは、何も読み取ることが出来ない。
「職員の男性から、興味深い話を聞きました。侯爵夫人は、以前来たときもチューダー王朝に関する本を読んでいたと。それも、誰の助けも借りず、一人で読んでいたと。」
「・・・ただ眺めていただけよ。」
「彼は、侯爵夫人の様子から本に何が書かれているか分かっているようだと言っていました。歴史を研究している専門家ですら、すべてを理解できる訳ではない昔の文字をです。彼が不思議に思って尋ねると、家にある昔の本を見る機会があったからとおっしゃったそうですね。」
「もう何を言ったかなんて、忘れてしまったわ。」
「私はそれを聞いて確信しました。おそらく、あなたは前世の記憶がありますね。これは、推測ですが。」
「・・・」
「ジェーン・グレイ。あなたは、ジェーン・グレイだった頃の記憶があるのではありませんか。」
侯爵夫人はくすくす笑い出すと、「面白い冗談だわ」と言った。
「私はパリで探偵をしていますが、職業柄そういった不思議な話を聞くことが時々あるのです。もちろん、作り話ではありませんよ。」