レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ㊸
「では、今からでも私の後を継ぐことを考えてはくれないだろうか?」
伯爵は、僅かに懇願するような響きを乗せて言った。
「いえ。もう、昔からお断りしているでしょう?身分や出自にうるさいこの国で、伯爵家の名を継ぐことを世間は許さないでしょう、と。それに、貴方には娘も娘婿もいらっしゃるではありませんか。」
「ふん、遊ぶことしか考えていない長女夫婦と、許嫁のいない次女のことか。君の優秀さと比べたら、心許ないものだ。」
「まだ時間があるのですから、お育てになればよろしいかと。」
「こちらの苦労も知らないで、分かったようなことを言う。」
「生意気を言って申し訳ありません。何分、貴族ではありませんから。」
伯爵は、ひじ掛けに置いていた手を緩め、髭を撫でた。
「この国の身分の煩さには、私も辟易することがある。君のような優秀な跡取りがいたらと何度思ったことか。」
「でも、その恩恵を受けているのも伯爵ですから。」
ユーグの言葉に痛いところをつかれたのであろう、伯爵はそれから言葉を発しなかった。
「本日はお招きいただきありがとうございます。私はこれで失礼いたします。」
「・・・もう帰るのか?夕食を一緒にとっても・・・」
「ホテルまで戻るのに日が暮れてしまいますよ。伯爵も、屋敷で奥様がお待ちでしょう。」
「・・・」
「私は仕事がありますので、失礼します。イギリスを発つ前に、また連絡いたします。」
「・・・必ずだぞ。」
「はい。」
「ふん。」
そう言うと、男は手元のベルを鳴らした。すぐに執事が扉を開け、黙って頭を下げる。
「帰るそうだ。送ってもらえるか。」
「かしこまりました。」
ユーグは執事について部屋を出る前、そっぽを向いている男に軽く会釈した。
「本日はお会いすることが出来て良かったです。また伺います。」
男はこちらを見ることなく、少し頷いた。まだまだ元気だと思っていたが、男の背中が少し小さくなっていることに気づかぬふりをして部屋を出る。
城の門の前には、来た時と同じ馬車が止まっていた。
馬車に乗り込むと、公爵の近くに控えていた執事が近づいてきた。
「坊ちゃま、本日はお越しいただいてありがとうございました。旦那様も、坊ちゃまに会えるのを楽しみにしていて、昨夜は眠れなかったようですよ。」
「坊ちゃま、なんて止めてください。私は、伯爵家の息子ではありませんから。」
「たとえ伯爵家の息子ではなくとも、私にとっては坊ちゃまですから。」
「・・・ありがとう。あなたが伯爵様のそばにいてくれるから、あの方は血の通った人間でいる気がします。」
「勿体ないお言葉です。」
「私にとって、あなたは実の父親よりも父親だったと思っています。もちろん今でもその思いは変わりません。伯爵様が未だに私のことを気にかけてくださっているのは、あなたのおかげですよ。」
「・・・坊ちゃま、それは違います。貴方のお母さまと貴方に出会ってから、旦那様は人としての心が生まれたのです。わたくしめのせいではありませんとも。」
「母上も私も、伯爵様にとっては思い通りになる存在ではないのにね。」
「世の中が思い通りにならないということを知ることが、大切なのでございます。」
「そういうものなのか。」
「そういうものでございます。」
そう言って、近くにいた若い使用人から受け取った籠をユーグの足元に置いた。
「坊ちゃまがお好きだったクッキーと桃のジャムでございます。籠はフランスに帰られる前にお返しくださいね。」
「・・・わかった。」
「伯爵様もですが、私もお会いしたいと思っていること、どうか忘れないでください。」
「・・・わかった。」
「それでは、ご無理なさいませんよう。」
「あなたも、お元気で。」
馬車が出発し、後ろを振り返ると、執事をはじめ使用人たちも皆、深々と頭を下げていた。
「ジャンさん、ユーグ様の乗った馬車が見えなくなりましたよ。」
傍にいた使用人が、頭を下げたままの執事に言った。男は、頭を挙げてもまだ名残惜しそうに馬車の去っていった先を眺めている。
「坊ちゃまは、お優しい方ですね。昔から、ちっとも変りません。おまけに優秀です。伯爵家の直系でしたら、どんなに良かったことでしょう。」
年嵩の使用人は残念そうに言った。
「いや、お優しい方だから伯爵家を継ぐのは心配なのだ。優しいだけでは、貴族というものは務まらない。」
「そういうものでしょうか。」
「そういうものです。」