レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ㊷
「あら、ノックはしたわ。」
「いや、していなかった。」
「もう!本当にしたわよ。」
夫妻が言い争いをしている横を、ユーグは音を立てずに通り抜けようとした。妻が大好きでたまらないのに素直になれない夫と、分かりにくい夫の態度のせいで愛されていないと勘違いしている妻・・・劇や小説では面白いかもしれないが、実際目の当たりにすると溜息しか出てこない。
「ユーグ!」
「ガルニエ様!」
目ざとい二人がユーグを見逃すことはなく、仕方なく立ち止まった。今までは面白くて傍観していたが、そろそろ二人には幸せになってほしい。顔を合わせるたびに痴話喧嘩に巻き込まれるのは勘弁してほしい、という気持ちの方が大きいのは事実だが。
ユーグは振り返って、夫人の耳元に顔を近づけた。彼が愛用しているであろうラベンダーの香水の香りが、ふわりと漂う。
「侯爵は、好きな女性には意地の悪いことばかり言って嫌われたと落ち込む男なんです。今日もその話ばかりでしたよ。どうか、そんな情けない男を許してくれませんか。それと、愛されているのですから自信を持って。あなたは彼に選ばれた女神なのですから。」
夫人はさっと顔を赤らめた。それを見て、侯爵の顔が分かりやすく引き攣る。
「おまえ・・・!」
「私はこれで失礼しますね。・・・侯爵、そのような怖い顔をしていたら、奥さまに嫌われますよ。」
ユーグはひらひらと手を振って屋敷を後にした。
友人である侯爵の屋敷を後にしてからも、ユーグは何人もの貴族の招待を受けた。もちろん、それとなく「レディ・ジョーカー」のことを聞くのも忘れない。しかし、誰一人として彼女の存在を知る者はおらず、ユーグは途方に暮れるのだった。
ユーグのもとに届く招待状が一段落するころ、上質な封筒に入れられた招待状が届けられた。
『今日の昼過ぎ、✕✕✕✕城で待っている A』
(やっと来ましたか・・・いつものことながら、随分と急なお誘いだ)
ユーグは立ち上がり、ハンガーに掛けてあるタイをしゅるりと取った。
いつ会う時も、緊張するものだと思いながら。
ホテルを出ると、質素ではないがそこそこ上等な馬車が止まっていた。紋章はついていないので、自分のためにわざわざ手配してくれたのだろう。慇懃な御者がユーグを確認すると、丁寧に馬車の扉を開ける。特段目立つこともないこの馬車に、通行人たちは何の興味も示さなかった。
ユーグを乗せた馬車は何事もなく通りを進んでゆき、やがて木は生い茂っているが綺麗に整備されている道を進んで行った。見るものが無いので、青葉が日の光で透けているのをぼうっと眺める。長閑な風景に見飽きる頃、馬車はゆっくりと止まった。
ノックと共に「到着いたしました」という声が聞こえた。石造りの小さな城は、以前来た時と変わることなく佇んでいる。ユーグは御者に礼を言うと、一人で城の中へ進んで行った。
「久しぶりだね、ユーグ。」
初老の執事が案内してくれた部屋に入ると、椅子に腰かけていた男が立ちあがって言った。タイを締め、皺のないジャケットに身を包み、髪はしっかりと整えられている。誰が見ても、英国紳士のお手本と言われる姿だ。
「久しぶりです、伯爵。お元気そうで何よりです。」
ユーグが答えると、男は溜息をついて椅子に座った。
「伯爵、などと・・・。」
「事実ですから。」
「・・・そうなのだが。」
男の目の前にある椅子に掛けると、すぐに温かい紅茶が置かれた。流れるような所作で砂糖とミルクを置いてから、執事はそっと部屋を出て行った。
「母上はお元気でしょうか。」
「ああ。もう会ったかい?」
「いえ、まだ。いろいろな方から招待状をたくさんいただいたものですから、片付けるので精一杯です。」
「君が来ていることを知ったら喜ぶだろう。」
「そうでしょうか。小さなころから自分が楽しむことに夢中なひとでしたから、喜ぶかどうかわかりませんよ。今日もどこかで楽しく飲んでいると思います。・・・そのような悲しい顔をなさらないでください。私は気にしていませんから。母上には、私がイギリスにいるということだけは伝えておきましょうか。」
「そうしてくれたまえ。」
伯爵はゆっくり頷いた。
「・・・その、君には小さな頃から随分と寂しい思いをさせてしまったと思っている。君の母親はああいう性格だから・・・。」
「世間一般では、良い母親とは言われないでしょうね。でも、私がここまで生きてこれたのは、あなたが良い乳母や家庭教師をつけてくださったおかげなので感謝しています。貴方に対して、もっとこうして欲しかったという思いを抱いたことはありません。」