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レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ㊴

 招待された夜会の会場の前は、着飾った紳士や淑女でごった返していた。
 ユーグは、目立たないようにそっと列に並び、入口で招待状を見せる。周りの客は、自分たちの身だしなみを気遣うことで余念がないため、じろじろと見られることはない。その様子に、ユーグはややほっとした。
 香水や白粉、整髪料の香りでむせ返るような空気の中を抜け、使用人からシャンパンのグラスを受け取る。素早く壁の近くに立つと、グラスに口をつけたまま、少しのあいだ周りを見渡した。女性のつけているダイヤモンドの首飾りや、男たちが手にしているグラスが、天井からぶら下がっているシャンデリアの光に反射して、煌びやかさに眩暈がしそうだ。
 ユーグは、話しかけられないよう器用に場所を移動しながら、目的の人物を探した。奥に人だかりができている場所に、その人はいるのだろう。
 ゆっくりと近づき、そっと様子を伺っていると、ふいに人々の隙間から仕立ての良いジャケットと細身だが筋肉質な肩が見えた。探し人は髭を蓄えた老紳士と会話が盛り上がっているようだ。相変わらず表面はにこやかで、言葉の端々にある毒は巧妙に仕込まれている。相手に与える情報は適度に、もしそれを忘れれば「利用価値なし」というレッテルがたちまち張られてしまうだろう。
『あなたとの話は、まことに有意義な時間でした』
 ユーグは、少し離れた場所にいる男の口に合わせて、そう呟いた。傍で何回も聞いていたからか、タイミングまで分かってしまう。
 ユーグが、輪の中心にいる人物を眺めていると、周りを見渡していたその人と目が合ってしまった。ユーグはすぐに目を逸らしたが、相手は人だかりの中から抜け出してユーグのもとにやってくる。
「久しぶりじゃないか!」
 小柄だが力強さと生命力に溢れている男は、ユーグに会えた嬉しさを隠そうともせず、笑顔を見せた。金色の髪は丁寧に後ろに撫でつけ、口髭で隠されているはずの口元が、嬉しさからだらしなく歪んでいる。
「・・・そんなに笑うと、周りの人が驚きますよ。」
「私はいつだって笑っている。今は殊更嬉しいだけだ。」
「それは光栄です。」
「いつまでこちらにいるんだ?」
「仕事が終わるまで、ですね。」
「では、しばらくいるのだな。」
「そうですね。」
「折角だから、あちらの部屋で葉巻でも・・・」
「お客様がお待ちですよ。今夜の主人は貴方ですから。・・・それに、こちらの屋敷では、私は長居できません。」
 男は小さく咳払いすると「では、また迎えに行かせるから」と小さな声で言った。
「こちらの都合の良いときにお願いします。」
 男は頷くと、一瞬名残惜しそうな顔をしたものの、すぐに傍にいた夫妻と話し始めた。それを見て、ユーグも体の向きを変え、深く息を吸う。屋敷の主人とユーグが話しているあいだ、周りではどちらに話しかけるべきか考えながら、大勢の貴族たちが集まってきていた。
「やあ、久しぶりですね。ミスター・ガルニエは、いつからこちらに?」
「お久しぶりです。またお会いできて嬉しいですよ。ええ、仕事に関係で2週間ほど前に。仕事が片付くまで、よろしくお願いします。」
「ミスター・ガルニエ、イギリスに来ていたのですね。」
「はい。実は・・・」

 結局、すぐに帰る予定だったのにもかかわらず、かなり遅くまで屋敷に残ってしまった。ホテルのベットで横になると、夜会中は碌に食べることも出来なかったのに、ぐったりとして飲み物を飲むことですら億劫になるほどだ。それにしても、屋敷の女主人がこちらを眺めているなかで話をしなくてはならないというのは、ユーグにとってかなり神経をすり減らすことだ。自分の周りには招待客がひっきりなしにやってくるというのに、その相手をしながら、夫よりも先に目ざとくユーグを見つけたのはさすがとしか言いようがない。
 彼女は口元を扇子で隠しながらこちらを見ていたが、隠されて見えないはずの口元は、自分を見て笑むことなど無いのだろう。ましてや、彼らの招待客の中には、ユーグを結婚相手にしたいと考えているものも少なくないため、それが余計に女主人の癪に障るはずだ。
(まったく、あの方も自分の妻くらいはしっかりと管理してもらいたいのだけど)
 ユーグは溜息をつき、年の割には若く見える夫人を思い出した。そういえば、帰り際に見た女主人の傍を離れない男たちの中に、依頼者のオリバー氏の姿を見たような気がする。
(まぁ、彼が誰とどう過ごそうと、知ったことではないけれどね)
そう思いながら、ユーグはすぐに眠りに落ちた。

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