シェイプオブウォーターとミッキーの手の話
先日、シェイプオブウォーターを見ました。
facebookにも少し感想を書いたのだけど、
それだけでは物足りないようで(それだけ素敵な映画だったということ!)
駅のホームで電車を待っている時や、カフェでぼーーーーっとしながら向かいの本屋で雑誌を立ち読みしている人を観察している時などに、劇中のある言葉を何度も思い出してしまう。
こんなに一つの言葉が何度も浮かんでくることは早々ないことで、せっかくだから書き留めておこうと思います。
なお、ネタバレ含みます。まだ見ていない人は気をつけて下さい。
何度も反芻してしまう言葉はこれ。
彼は不完全な私ではなく ありのままの私をみてくれる
主人公のイライザが、もうすぐ実験台として命を絶たれるかもしれない不思議な生物(=彼)を助けることに協力してほしいと友人に頼む時の台詞です。
イライザは、耳は聞こえますが、幼い頃に声帯を裂かれており話すことができません。
話ができる”普通"の人からすれば、話すことができないイライザは誰しもが持つ能力を欠いているという点で”不完全”な人です。
私もこのシーンまでずっと「イライザは話す能力を"欠いている"」と思っていました。
ごくごく自然に、登場人物も観客もイライザのことを「話すことを奪われた存在・あるはずの何かが欠けた存在」として認識しているのです。
しかし、言葉を話さない彼にとってイライザはそのような"不完全"な存在ではありません。
2人は、言葉以外のコミュニケーション(音楽を聴いたりダンスをしたり、一緒に食事をとったり、見つめあったり)をとって距離を縮めます。それは、2人にとって何一つ不完全ではないコミュニケーションであり、「話せない」という不可能の前提のない、ありのままの交流です。
彼が人間ではないために、周囲とは異なる前提で自分をみている。
"不完全"な私ではなく、私をただの私として認識し、接している。
そういった意味でイライザはこの言葉を発したのだと私は解釈しています。
少し話は変わってしまいますが、
このシーンをみて私は、友人が言っていたことを思い出しました。
ミッキーの手ってさ、指が4本しかないのよ。 この前友達と集まった時に「いったい、どの指が無いのか?」っていう話をしてたのね。でもある子が「それは人間の指が5本だから、それを基準にその議論に至るわけでしょ??でも、そもそも指が5本という前提が人間中心主義なんじゃない?良くないんじゃない!?!?」って言って。 その場にいた一同「ほんとだね」って。けっこうな気づきだった。
ゼミの帰り道、北門に向かう途中でした。
もう、心の中でスタンディングオベーションだった。
それなーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!
イライザのように話せない人を含め、
見えない人、聞こえない人、はたまた指が4本のミッキーも
自分(とかマジョリティとか人間)を基準に物事を認識しているから、それが「無い」という状態に直面した時「できない」「欠けている」と思ってしまっていたけれど、
その基準自体が絶対的なものではないんだよねということに気づきました。
といっても、なかなかその認識の基準を取り払うことは難しくて、無意識のうちに私基準を適用していることって多々有る。本当に。
逆に、その基準があるから、複雑怪奇で可能性が無限にあるこの世の中を、あまり深く考えすぎる事なく生きていくことが出来るんだと思うし。
でも、もし誰も言葉を使わない世界だったらおそらく別のコミュニケーションが発達してただろうし、人間の指が4本だったら手袋は4本指になっていただろう。(ミッキーの指は何本になってるかわかんないけど。
だから、必要な時には、そんな想像を出来る人に。
誰しもがものすごく当たり前で、自明のことだと思っている認識の枠を外して世界を眺められる人でありたいと思いました。