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赦すことは手放すこと

「ゆるす」

この言葉には二つの漢字がある。

許すと赦す。

許すは、許可。
赦すは、罪や過ちを責めない、
という意味であると思う。

今回は「赦し」について、話します。


赦せないことは、誰の日常にもあるように思う。

車を運転していたら、
前の車がウインカーもなしに左折したとか。
後ろからあおってきたとか。

自転車でも、飛ばす人はいる。
もちろん歩きでも。

あとは、勤務時間中にサボっているけど、
人当たりが良いからお咎めなしの人とか。

悪口のネタに飢え渇いて、
何でもかんでもゲラゲラ笑う人とか。


もしくは、誰かに大切なものを、
また自分自身を否定された、とか。



赦せないことって、
本当に誰の日常にもあると思う。
大なり小なり。

そして赦せない期間が続くと、
いつしか元の原因も忘れて、
赦せない思いだけが残っている。


子どもの時のことなんか、特にそうだと思う。


頭では、わかる。

相手の事情も、自分が幼かったことも。

誰も悪くない。

あれはどうしようもなかったんだって。


そんな風にして、自分の中にある、
未だに赦せないことを挙げてみた。

そして思った。

いつまで私は親を、――を、、、
何より自分を赦せないんだろうって。

、、、いつまで?


頭ではわかるけど、結局心の底では赦していない。

これはもはや、執着だ。

赦せないというか、赦してはいけない。

私は、憎しみや恨みとずっと一緒に生きてきたんだ。

昔は友達として、
今は性格となって、
恨みは私の中に生きている。


だから、
傷つけられた人たちを赦してしまえば、
もはや自分ではなくなる。

自分のアイデンティティを保つために、
傷が必要だったんだ。



でも、
イエス・キリストを信じる者は
新しく生まれ変わる。

過去・現在・未来の罪を赦され、
新しいアイデンティティのもとにこれからを生きる。

愛されていない傷だらけの自分、ではなく
イエス・キリストが十字架にかかるほどに
愛された自分
として、これからを生きていける。


ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

聖書 コリント人への手紙Ⅱ 5章17節


キリストによって
新しいアイデンティティをいただいたなら、
赦せないという執着心も捨てられるかもしれない。

なぜなら、
昔の傷を握りしめて長い期間苦しむよりも、
イエス・キリストの愛をもらって今生きる方が、
楽しいから



赦せない心、それは執着。
原因に、そして未だに
恨み続ける自分への執着心とも言える。

だから、人を赦すことは
自分を赦すことにつながる。

そして、
傷ついた自分というアイデンティティを
手放すことでもある。

赦さなければならない、ではなく、
もっと良いものをいただきたいから手放す。

キリストがあなたのすべての罪を赦してくれても、
恨みつらみをを手放すかどうか
恨み続けてきた自分を認め、執着心を手放すかどうかは

あなたにしかできないことだから。




もちろん、今すぐ赦せというわけじゃない。

赦せなくてもいい。

でも、赦したいと思うなら、
あなたは神から既に赦されている。
そして、苦しむ時には、神があなたの助けだから。



どうか、しゅ(あるじ=神)が、
あなたのいたみに寄り添い、
傷みに勝る慰めと平安を与えてくださいますように。
あなたがそれらを受け取れるように、
主が導いてくださいますように。

イエス・キリストの御名によって。アーメン。



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