自分の夢か、他人の夢か
神を信じる者にとって、「こうしたい!」という思いは、基本 神から与えられるものだ。
つまり、ビジョンは神のものである。
では、「私」がやる意味はなんだろうか。
だって、神がビジョンを与え神が実行に移すのなら、神が全部動けば良くない?私じゃなくて良くない?
たまにそう思ってしまう。
ちなみに、ビジョンを受けた「私」の気持ちはどうか。私は、神の愛を伝えたいのだろうか。
答えはもちろん Yes だ。
神は人を自由な意志を持たせて造った。つまり、操り人形や機械として造っていない。
私は私で、どうしたいか決めることができる。もちろん、神の思いも無視できる。
私は、神の操り人形ではない。神にとって、都合のよい駒でもない。
十字架にかかるほどに私を愛してくださった神イエス・キリスト。この方の愛に突き動かされ、私は自分の意志で、神に従うことを選びとっていくのだ。それは、神と愛し合うことでもある。