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自分の夢か、他人の夢か

神を信じる者にとって、「こうしたい!」という思いは、基本 神から与えられるものだ。

つまり、ビジョンは神のものである。

では、「私」がやる意味はなんだろうか。

だって、神がビジョンを与え神が実行に移すのなら、神が全部動けば良くない?私じゃなくて良くない?

たまにそう思ってしまう。


ちなみに、ビジョンを受けた「私」の気持ちはどうか。私は、神の愛を伝えたいのだろうか。

答えはもちろん Yes だ。


神は人を自由な意志を持たせて造った。つまり、操り人形や機械として造っていない。

私は私で、どうしたいか決めることができる。もちろん、神の思いも無視できる。


私は、神の操り人形ではない。神にとって、都合のよい駒でもない。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

聖書  ヨハネの福音書3章16節

十字架にかかるほどに私を愛してくださった神イエス・キリスト。この方の愛に突き動かされ、私は自分の意志で、神に従うことを選びとっていくのだ。それは、神と愛し合うことでもある。



イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を畏れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。

聖書  申命記10章12-13節

神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。

聖書  ヨハネの手紙 第一 5章3節

神は愛です。

聖書  ヨハネの手紙 第一 5章16節




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