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十字架を誇りとするとは何か
クリスチャンとなって時間が経つと、
神様がいることも、
十字架の話も、
すべてが「もう知っている話」になります。
今日は、自分の罪を通して
改めて神様の恵みを知り
十字架に対する見方が変わった、
そのように神様が気づかせてくださったことを
シェアしたいと思います。
イエス・キリストとあなたの関係
例えば、
人を傷つけたり、
嫉妬したりするとき。
世の宗教は、
あなたの性格が悪い
前世に問題がある
といって、努力によって
真っ当な人間になろうとします。
でも聖書は、罪人だから罪を犯すと教える。
人は生まれながらにして
神から離れて生きている罪人であり、
人を傷つけたり嫉妬したりするのは
あなたが罪人だから。
でも罪は自力では無くせないから、
あなたの代わりに、
イエス・キリストが十字架で
罪の代価を支払ってくださった。
あなたの過去・現在・未来のすべての罪を
イエス・キリストが十字架で背負い、
死んで葬られ、3日目に復活された。
これを信じる者は罪が赦される。
以上が福音であり、
イエス・キリストがもたらした良い知らせです。
クリスチャンはみな福音を信じています。
イエス・キリストを信じても変わらない自分
「イエスさまが
私のすべての罪を十字架で赦してくださった」
「私はこんなにも弱いのに、
イエス様がいのちをかけて愛してくださっている」
クリスチャンはそう知って、
はじめは喜びに満ち溢れるでしょう。
しかし時間が経ってくると、
神様がいることも、
十字架の話も、
すべてが当たり前になってくる。
私もその一人でした。
人への態度=神への態度と言われるけど、
私の人への態度は、
何か用があった時だけ頼る。
職場の人に対する態度なんかは
まさに典型的です。
職場の人とのコミュニケーションや感謝よりも
仕事への不満を募らせ、
あまり関わらないようにしてきました。
つまり、神様に対しても、
神様を利用し、都合の悪い時だけ頼る。
イエス・キリストを信じていながらも、
まだ変わっていない傲慢な自分が嫌でした。
自分の弱さに注がれる神の恵み
布団の中でぐるぐると考えていると、
唐突にふと、こう思いました。
そうか。
この私の罪のために
イエス様が十字架にかかってくださったんだ。
自分の弱さを自覚するほど、
イエス・キリストの恵みを改めて実感する時となりました。
私にとっての十字架とは
イエス・キリストを信じるクリスチャンは
十字架を誇りとします。
キリスト教(クリスチャンの集まり)も、
十字架がシンボルですよね。
今まで私は、十字架を見上げる時、
単に主イエス・キリストの恵みのみに
焦点が当たっていました。
しかし、主イエス・キリストを信じても
まだ変わらず罪を犯す自分と、
その度に十字架の恵みに触れた時、
十字架の見方が変わりました。
十字架とは、
イエス・キリストの恵みの象徴、
そして私の罪の象徴であると。
まとめ
Amazing Grace
偉大なる神様の恵み、
と同時に、弱いどうしようもない自分がいる
その二つが十字架に表されています。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
自分の弱さから逃げるのは楽です。
現実から目をそらすことは。
でもその結果、
神から的を外して生きる
自己中心な自分のままです。
自力で罪は何とかできないのですから。
自分の罪を自覚する時は、
イエス・キリストの恵みを覚える時。
自分の弱さを自覚する時は、
神の強さを知る時。
十字架を誇りとするとは
しっかりと自分の罪を自覚し、
そんなあなたのためにいのちを差し出された
御子イエス・キリストの恵みを心に留めること。
自分の罪と神の恵みを両方を
しっかりと受け止めて歩んでいくことなのだと
知りました。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの内に完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。