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占いは罪なのか―蒼月夜空のことば

占いが罪ではなく占いを中心にしたり、それに囚われたり、そこに重きを置くと神から離れて的外れになります。

そういう人は神の為さることもことばも「当たるも外れるも八卦はっけ」と自分を神より上としてしまい、神のことばを聞かなくなります。もしすべての占いが罪ならばマッテヤは偽り者になります。

パウロが占いの奴隷となった女性を支配者の悪霊から解放したのは、彼女が(悪霊に唆されたとしても)主を褒めたたえ、パウロたちを主に仕える使徒だと喧伝したからです。きっかけはどうあれ、神に助けを求める者を神は見捨てたりしません。

神は素晴らしいですね。

私たちクリスチャンはみことばなる神の権威を識っています。

しかし、安易にみことばですべて解決しようとするといつの間にか神を差し置いて裁き人と成り果てる危険性があります。

みことばの権威は神のものであり、私たちのものとしてはなりません。主権者は神です。

「では、みことばには権威はないのですか?あなたはみことばを軽んじている」とあなた方は云うでしょう。決してそんなことはありません。

みことばとは敢えていうならば神からの指針です。

神はモーセに律法と幕屋、大祭司を与えましたがそれがすべてとは証されませんでした。律法はあくまで繋ぎであり、そのことばには確かに権威はありますが、すべてではないので御子がこられたとき律法を成就させることにより、律法の答えを提示されました。それは神の愛だと主は使徒ヨハネを通じて証しています。

さらにみことばの解き明かしを主は例話を用いて話され、詳しい部分や秘められたものをパウロが奥義と定義しました。

私たちクリスチャンは黙示まで詠んで初めて、その指針なる契約の聖書を識りました。
しかし詠めば詠むほどその権威はあくまで人が人として神の御前に歩むための法であり、神の愛のことばです。

愛なくしてみことばは成り立たず、
みことばなくして愛には至りません。

「わたしの他に神はあってはならない。
わたし以外の木や金銀を刻んで形作ったものに仕えてはならない。偶像に生贄をささげたり、拝んではいけない。」

「義に飢えるものは満ち足りて幸いとなる。
心の清いものは神を見て幸いとなる。
平和をつくるものは神の子とされ幸いをえる。」
と書いてあります。

みことばとは私たちの日毎の糧です。
されど知識は人を高ぶらせ愚かにします。
しかし、みことばを蓄え用いて神のことばを解き明かし、また福音へと人々を導くことができます。

ですが、そのすべての主軸は神であり、私たちにはなんの権威も主導権もありません。私たちは裁き人ではありません。みことばで裁いていいのは悪霊や罪の本質であり、神は人が人を裁くためにみことばを与えたのではありません。

私たちが天に凱旋するそのときまで、
神の恵みと平安に生きるためのものなのです。

イエス・キリストの祝福と愛がすべての人々にありますように。




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