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風浦榮次さん 『海よ船よ友よ43年をありがとう』 No.1

 昭和32年春、有川中学校を卒業した。

 子供の頃の時は、特にヨウチ園児の時、身体も大きく、級の中でも後ろから三番目ぐらい 力もつよかった ケンカは良くやらされた。先輩達がケンカの相手を連れて来る。どこから連れて来る者が負けると先輩達もそれ以上の強い者を連れて来る。強い者エスカレーションして行く。中には自分達の連れて来たのが不利になると背中を押したり足を引っぱったりする者も出て来た。ケンカの途中に連れて来た相手に加勢する先輩も出て来た。{この部分は風浦さんが思い出したら加筆修正する}ケンカなどと大ゲサに書いてはいるが子供のケンカでスモウと変わらない。しいて言えば土俵のない。逃げたら、泣いたら負けよ。昔、テレビもないころこういった危険な遊びもあった、が、ようち園から小学校6年までの間、このやらせケンカは3回程だった(小学校六年で健康優良児)だったがそれ以後は身長も伸びず中学では(中)ぐらいになった。

 中学に入ってからは柔道、スモウ、野球などのクラブがありクラブに入りたかったが、釣りが楽しみな海に行くのが好きな釣一番の自分にしてはクラブの入って闇く{くらく}なるまで、練習をすることは出来ない。だがスモウも、柔道も野球も中学体育連合大会に選手として出ている。この年齢になり時々会う、あまり中学校時代口もきいた事ない同級生に「お前はこわいソンザイだったよなあ」等と言われると「おれがお前に何かしたか」と言っている。ようちえんに行くころから二、三人の友が出来ていったのだ。だが何も言う事はなかった。

 戸畑に来て三日目。
 有川港を出て良か凪で佐世保につき、ここ戸畑に着いた。

 日本水産戸畑養生所

 ここが就職先である。会社の前は海で八代海、洞海湾が広がっている。会社の事ム所に自分が有川から今着いたと知らせた。会社指定の旅館に泊まった。
 次の日50人全員が船員養生所の会議室に集められ 養生所の所長が今回の件について話した。いろいろな注意事項があった。「ここで勉強してもらい是非国家試験に合格し末は船長になってほしい。それから二、三日中に乗船案内が来るので注意して待つように」と所長は告げた。
 所長は海技試験官を定年して再就職し日本水産に入社した。

 ついに乗船

 待機する事三日。乗船命令が来た。

 船名「加椎丸(かしい丸)」
 一〇〇〇トン、サイドスロー型トロール船
 〇月〇日入港予定
 九時までに乗船して下さい。

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