自分時間の考え方
1日、24時間。
これは疑う余地もなく、すべての人に平等に与えられる時間だ。
時間は規則正しく、刻々と過ぎていく。
若い頃に感じた時間の進む速度と、今感じている速度とではだいぶ違う。「あっという間」という言葉の背景色が、若い頃とは違うのだ。
「楽しくて、夢中で、あれもこれもと頑張っていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった!」
若い頃はこんな感じの、明るい【パステルカラー】が背景色。
「雑務に追われていたら、考え事をしていたら、ただボーッとしていたら、あっという間に時間が過ぎてた」
「嗚呼、また無駄な時間を過ごしてしまった・・・・・・」
今の背景色は、溜息混じりの【ブルーグレー】。
でも、これは悪いことではないのだと思う。
若い頃より物事を要領良く的確に進めていく能力が備わった今の自分だからこそ、「無駄」を認知してしまう。若い頃は要領が悪く、でも無我夢中だから無駄に時間がかかっていることにも気づかない。だから時間が「あっという間」に過ぎるのだ。
人は歳を重ねていくと様々な能力レベルが上がっていく。
生活力、判断力、対人力、危険察知力、空気を読む力・・・・・・
これらは皆、重ねてきた経験から得られる能力。生きてきた時間が長いほど色々な出来事に遭遇し、対処対応した経験から様々なことを学んでいく。
「自分の時間がない」
そんな言葉を時々耳にする。誰でも平等に24時間を持っているのだから、自分の時間がないというのはつまり、「自分の為に使える時間がない」ということなのだろう。
私はこう思う。
本来「自分の時間」は1秒たりとも誰かに、何かに奪われることはない。24時間すべてが「自分の時間」だ。もちろん睡眠時間も含めて。
例えば、
職場で後輩のミスの尻拭いのために残業している時間、自分はもう夕飯を済ませたけど、深夜に帰宅した夫の為にもう一度食事を作る時間、家の前にワンちゃんの糞が落ちていて、これを片付けている時間、等々。
どれも「自分の為に使う時間」とは言えないかもしれない。しかしながら、これらの時間もすべて「自分の時間」なのだと私は思う。
「自分の時間がない」と思う人の多くは、自分がやりたいことを我慢し、他のこと、他者の為に時間を費やしていると感じている。ハッキリ言えば、「やりたくないこと」に時間を奪われたという残念感、苛立ち感だ。
私は最近、こう考えるようにしている。
「本当にやりたくないことは、頼まれようが何だろうが絶対にやらない。でも、ちょっと面倒だけどやったほうが後悔しないで済みそうなことは《自分の意思》でやると決め、最善を尽くす」
一番残念なのは、自分の意思に反して「やらされている」と感じること。だからすべての物事に対して自分が主体的に「やる」と決めてしまえば、やらされている感は一気に消滅するのだ。
家の前にワンちゃんの糞があるのは、《自分が》よしとしないから「片付ける」と決める。
こういう思考に慣れてくると、日常のあらゆる物事がポジティブに考えられるようになる。すべては《自分が》決めたことだから、責任もあるが自由も得られる。
「自分の時間」は自分で決めて自分で楽しもう。ボーッとしている時間も悪くない。その時間は脳の休息という大事な時間だ。
誰かの為に働く時間、それは慈悲と献身の最高の境涯ではないか。人は結局「誰かに喜ばれる」ことで究極の幸福感を得られるのだから。
時間を大事に、意識して過ごしてみよう。
時間配分は自分で決めよう。
物事はすべて自分の意思で選択しよう。
さあ、休息の一杯も自分の意思で。
どの味にし・よ・う・か・な?