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ツネさんが死んだ

祖母が1月末に亡くなった。

104歳だった。

多分老衰だろう。

死因やいつ亡くなったのかの詳細は教えてもらっていない。春になって納骨が済むころに初めて知ることになるだろう。それで構わないと思っている。

亡くなる二日前まで施設のカラオケ大会に元気に出席していた写真は施設の方からいただいた。叔父や叔母には愛されることはなかったが、施設の人にはとても大事にされている様子が伝わった。

さすがに100歳を超えた時点で、いつなくなってもおかしくはないと思っていたので、悲しいと思うことはなかった。葬儀も伯父と叔母だけで執り行われた。最期のお顔を見ることができなかったのは残念だけど、叔父や叔母の気持ちを考えると仕方ない。人にはそれぞれの事情がある。祖母も生きるのに必死な時代を生きてきたので、叔父や叔母に厳しかったのだと思う。子供一人一人に向き合えるような時代ではなかった。私の母も祖母のことを嫌っていた。愛してくれなかったというのが大きな理由のようだ。

孫である私は育てられることはなかったので、祖母に対して嫌悪感は全くない。母から悪口や愚痴は聞いて育ったけど、私は祖母が好きだった。祖母の暮らすところが好きだった。

祖母は95歳くらいまで一人暮らしをしていた。築40年以上のボロアパートに住んでいた。ボロアパートに住むいきさつは叔父が祖母の家を担保に入れて支払えなくなったからだ。非常にシュールな出来事であった。子供の時に遊んだ祖母の家がすぐに取り壊されたときは、自分が育った家を手放した時以上に切なくなって叔父を恨んだ。それでも、祖母は叔父を許した。祖母はそのことについて無言を貫き通した。

普段は驚くほど饒舌なのに、肝心なことは口を閉ざす。すぐに話題を変えて笑いをとる。それが祖母の生きる哲学だったのだろう。大事なことは本当に話さなかった。

そんな大好きな祖母に会いたくないと思う時期があった。大人になってからの反抗期である。

私も姉も女子度が低い。仕事が休みの日はすっぴんにジーンズとTシャツ姿である。家族に会いに行くのだからそれでいいと思っていた。女子度の塊である祖母は、その姿を見るたびに

「紅くらいさせ」

「そんな小汚い格好で・・・」

と説教をするようになった。その説教は小一時間以上続いた。仕事が忙しかったのと説教を聞くのが嫌で足が遠のいた。私は唯一、母の教えを洗脳されたかのように守っていることがある。


「男はけだもので鳥肌が立つくらい嫌いな存在」

人にはいろいろな過去がある。父も昭和一桁生まれで

「男女七歳にして席を同じうせず」

ということを呟いていた。時代的にそれは難しくなったので、呟くしかなかったのだろう。

この洗脳のため、私は男性に好かれるような行動や服装を無意識のうちにしなくなっていた。好感度という言葉は敵だと思い込んでいた。

祖母の思い出の話にもどろう。

祖母は料理がとてもうまい。特にてんぷらは絶品だ。すっぴんで通すという反抗期をいとも簡単に抑え込んでしまう美味しさなのだ。胃を掴まれるということはこういうことなのだろう。

95歳まで一人暮らしで太陽とともに目を覚まして、畑に出かけ、お腹がすいたらお昼を食べる。近所の人が家で井戸端会議をはじめる頃に食事を作ってふるまう。そして暗くなったら寝る。非常にシンプルな生活を送っていた。いつでも人が遊びに来てもいいように鍵は閉めたことがない。今では信じられない生き方をしてきた。ほんの10年前までの出来事である。そんな生き方を私は尊敬している。

そんな祖母も一人暮らしで死ぬかと思う出来事があったらしい。口にはしないけど、厳冬がこたえたのだろうと解釈している。祖母のめずらしい弱音でサービス付き高齢者住宅に入居することになった。健康を維持するために毎日階段を使いたいという理由で2階での生活を選んだ。どこまでの祖母らしい。

サービス付き高齢者住宅に住むようになってから、畑をすることも、料理をすることもなくなり、祖母の生気は会うたびに薄れていった。人の行動の制限することは生気を失わせることなのだと思った。

それでも祖母に会いに行くとチャーミングな笑顔と一生懸命もてなそうとしてくれる。持たせるお土産がないことを恥じて、履き古した靴下を引っぱり出してくる。昔の人はそういう心持で生きてきたのだ。気を遣わせることや生気のない生活をみることが怖くなって、足が遠のいた。

96歳の祖母はどう考えても、あと数年しか生きられない。そういうことはわかっていた。96歳から歳をとることが加速したように見えた。それでも寿命を全うしたいと思いは強かった。だから104歳まで健康に生きたのだろう。何の病気もしないで死んでいった祖母はやはりすごい。そして最後までチャーミングな笑顔を振りまいていたらしい。

私と真逆な生き方をしてきた祖母は私の誇りである。

「令和」まで生きられなかったことは残念だったという自分の浅はかな希望を今になって反省している。

アイキャッチの画像はDosanco Salalaさんに100歳の誕生日に送った似顔絵です。


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