情熱大陸は好きですか セミナー①
こんにちは、あかっぱです(^^♪
今回は、ちょっと一般的な「医者」のイメージとはかけ離れた医者である、通称「しかさん」の「情熱大陸は好きですか」セミナーを受けさせていただきました。
しかさんの何が「一般的な医者のイメージ」からかけ離れているかというと、まず医者なのに教育系のオンラインサロンに入っていて、こうしてセミナーをするくらい学びに対して貪欲。そんな医者いますか?僕の周りにはいません。そもそも医者の友達がまずいませんが笑
そして、今回、しかさんの、めちゃくちゃ魅力的で、人間的で、人情味のある、その根源も見えました。
今回はこのセミナーの、「内容」から学んだこと、と「構造」から学んだことの2回に分けてまとめてみたいと思います。
情熱大陸とは
皆さんは「情熱大陸」を見たことがありますか?
一度はある、少しは見たことがある、という人が多いのではないでしょうか?
その中で、あなたは「情熱大陸」は好きですか?
私は、情熱大陸にかかわらず、ドキュメンタリーというジャンルそもそもを、正直自分から進んで観る、というほど好きではありません。
しかし、職業柄、総合的な学習の時間等々でたまにドキュメンタリーを見ることがります。そうすると、へー面白いな、と思う、そんな程度です。
では、ドキュメンタリーが好きな人は何を見て面白い、と感じるのか?
ズバリ、「その人の背景を知ること」だそうです。
今では有名になって活躍しているあの人にもこんなどん底の時代があったのか
こんなつらい過去があったから、この人はこんなにも明るく振舞えているのか
その人の背景を知り、その人の見方が変わる、そんな瞬間に「面白さ」を感じるのだといいます。
情熱大陸はだれしもある?
セミナーの途中しかさんのこんな言葉がありました。
あなたの周りにも情熱大陸が溢れていませんか?
ズキューン!と来ました。
ほんと、運命の人に出会って、ハートを射抜かれたような(ちょっと大げさか笑)
でも、本当にこのしかさんの言葉は僕の心に響きました。
なぜか?
まさに今自分が、自分自身の一番の課題だと思っていることだったからです。
それは何か
「思いやり」
言い換えれば
「想像力」
今回のしかさんのセミナーでは、まいまい、もりちゃん、そしてしかさんの今までの過去の話がありました。
しかし、どの人の話も、優劣なく、私だけでなく、参加者全員にとって心を揺さぶる話になりました。
その人の背景を知る、まさに「情熱大陸」です。
つまり、「情熱大陸」は有名人だけの特権ではなくて、全員が持っているものなのです。
そして、テレビで有名人の情熱大陸を見るかのように、「その人の情熱大陸を知ろうとすること」は、つまり目の前にいる人の背景を知ろうとすることなのです。
それは、情熱大陸というドキュメンタリーを見るかのように楽しいことであり、その人の興味があれば自然と知りたくなるものなのです。
しかさんの情熱大陸
なぜしかさんがこのように、「情熱大陸」的な見方で人を見られるようになったのか?
セミナー後の話の中でその理由がわかりました。そして、それはそのまましかさんの人間的な魅力の根源でもありました。
ここで私がしかさんのエピソードを語るととってもチープになってしまうので引けるのですが。。。
しかさんが医師2年目の時に、高齢のおばあちゃんが急患で運ばれてきました。
しかさんは盲腸、ということで執刀をしたのですが、おなかを開いてみると違う病気でかなり状態が悪かったとのことなのです。
最善を尽くしたのですが、最終的にはその数か月後にはあの世に旅立たれることとなってしまいました。
その旅立たれる直前、しかさんは時間があったある日、そのおばあちゃんの病室に行き、話を聞いたのだといいます。
そこで言われたのが
「こうなるんだったら、あのまま逝かせてほしかった」
という言葉
この時、しかさんは、初めておばあちゃんの思いを知ったのだと言います。そして、なんでもっと早くおばあちゃんに、想いを馳せられなかったのか、と後悔したといいます。
お話を聞いたその時は正直、なにも言葉が出てきませんでした。
今思えば、しかさんは休みの日にわざわざおばあちゃんに会いに行った、そしておばあちゃんも自分の思いの丈を語れた、そういうところにすでにしかさんのお人柄が表れているし、おばちゃんはしかさんに心を許していたとも思いました。
しかし、しかさんはこの出来事をきっかけに、医者という多忙な仕事にもかかわらず、患者さんの想いや背景、つまり「情熱大陸」をみようとするようになったと言います。
あかっぱにとっての「情熱大陸」
そんなしかさんの姿を見て、あかっぱはどう思ったのか?
私自身の人やその人の背景への興味は、まさに、私自身がもつドキュメンタリーの情熱大陸への思いと同じだなと思いました。
自分から好き好んでは見ないけど、見たら見たで面白い
そんな程度。
だから、子どもたちと話しているときにも、その子の背景にまで想いを馳せることをしていなかった。
例えば、「○○が好きなんです。」といった子に対して
「なんで○○が好きなのか?」
「いつから好きなのか?」
「どんなところが好きなのか?」
そういうことは聞きたくなるし、質問をよくする。
しかし、それは「あかっぱが知りたいこと」
そうではなく、「なんでその子は○○が好きなんだろう?」と、その子自身も気づいていない、生い立ちや過去、考え方にまで想いを馳せよう、という思いが全くなかった。
そして、それは、その子に聞いてもわからない。
つまり、「想像」するしかないことなのだ。
この「想像力」が足りないから、私自身、自主セミナーでも、コミュニケーションでも、人とのかかわりでも苦しんでいる真っ最中だ。
昇降口で休み時間に雪合戦をしていた子たち
あなたは何と言って叱るだろうか?
そもそも叱らないだろうか?
私は叱れなかった。むしろ一緒になって雪合戦をしてしまった。
「別に周りに人はいないし、迷惑はかけてないからいいかな?」と。
しかし、それは「目に見ているもの」しか見ていない。
その場を雪かきしてくれていた庁務の先生は何と思うか?
もし雪玉がガラスに当たったら?
その姿を1年生が見たら?
その姿をほかの先生が見たら?
その一つ一つに答えていけば、もしかしたら、そこまで重要な問題はない、ということもあるかもしれない。
しかし、問題なのは、教師としてそういう「目に見えない人」「目に見えないその後」に想いを馳せられることなのだ。
コミュニケーションも同じだ。
相手はどんなことを考えているのか?
この言葉を言ったらどんな風に感じるのか?
ファシリテーションなら、
話したくなっている人はいないか?
退屈していないか?
自分が話過ぎていないか?
なんでこの人はそんなことに興味があるのか?
先日のあかっぱ自身の自主セミナーではこの部分が完全にかけていて、参加してくださった人たちに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
こうした一連のことから、自分の想像力のなさに、嫌気がさした。
しかし、自分で自分を嘆き、悲劇のヒロインを演じていても何も変わらない。
自分が成長していくためには
〇自分は変われる存在だと自覚する
〇自分の癖、立場、立ち位置に気づく
〇常に変わろうと意識し続ける
ことが大切だと思う。
想像力が足りず、情けないと感じるあかっぱ自身も事実
まずはそこを受け入れて、一歩ずつ前に進もう。
最後までお読みいただきありがとうございました!