マイルストーン
日々の臨床的営みの中で、自分自身のスキルも経験も揺さぶられることがある。それこそ臨床活動をしていく上での醍醐味でもあるだろう。
そういうマイルストーンのような出来事の中で、
私たちはより肉付けされていく。
そのことを自分なりに消化し、咀嚼し、シェアし、共感されることによって。
私自身にも、揺さぶられた体験はもちろんある。
「先生は、どうなんですか?」「やっている意味があるんですか?」「よくなるんですか?」と突き付けられることは臨床家にとって重みのある出来事だ。
でも、いくつかのそういう体験を経て、感じる。
それは今やっていることへのその方なりの抵抗の現れなのかもしれない。その方自身の不安の表れなのかもしれない。そしてそれはつまりは、臨床家自身の不安がその方に投影されているのかもしれないと
そして色々模索して答えがでなくて考えた末にたどり着く
「それでも私と一緒にいてみますか?」の回答には、それでも意外と「イエス」をもらうことが多い。もしくは何事もなかったようにふるまわれることすらある。
そこで気づく、
そもそもその方にとってその問いかけは、素朴な疑問だったのかもしれない。
そしておそらく揺さぶろうと思ってそうしているわけではなく、悪意でされているわけでもない。
自分さえ逃げなければ、その人はこれからも伴奏してほしいと思ってくれることもある。その疑問はこれまでの人生全般についての、その人の思いや不安なのだろうから。
臨床家であることは時にきつい、職種を言うと大抵の人は言う。
「大変そうだね」
でも、果たしてそうなのだろうか、という視点が私の中にはある。
大変でないと言ったらうそになる。
でも、それ以上に学ばせてもらっている意識は強く、そのことが自分の要素になり、自分をより拡大していく。
そんな感覚は私をなによりも活かし満たしてくれる。だからやりがいがある。
天職という言葉があるのなら、臨床活動は私にとってのそれであると思う。そんな気がする。
いつまでも対応する方に対する自分の拙いスキルと経験で、寄り添っていく。
でもその一つ一つが、自分のセールスポイントであり、商売なのだとも感じる。
そんなきれいごとではないから、仕事だからできることがあると私は思う。だからこそ、結果を求められるし、自分もモチベーションを保てると感じる。だから話してくださる方の投じるその疑問は正しいし、いつも自分が持ち続けるべきものなのだとも思える。
短い人生の中で出会える人々が自分の師匠だという気持ちで、少なくとも仕事上の自分はそんな謙虚な側面をいつまでも持ち続けようと思う。
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