3× 第六話
赤沼はインターフォンを押した。
しばらくして、喜助の母、好美がドアを開けた。
「赤沼整備と申します」と、赤沼は自己紹介した。
「あ、どうぞ」好美の声は、夫の不機嫌さを予感させるような低さだった。
リビングには喜助と父の勇助が座っていた。
勇助の手には、昼間から空になった酒瓶が握られている。
壁は古びた黄色で、家具は使い古された感じがあり、部屋の隅には未修理のテレビが置かれていた。
「こちらです」と好美の声は勇助の姿を見て一層落ち着きを失っていた。
赤沼は部屋に入ってきた。
「あ、こんにちは」と赤沼は挨拶した。声は、この家の空気に溶け込むことを拒むかのように、場違いな明るさを帯びていた。
勇助は不機嫌そうに顔をしかめた。
「誰だ、お前」と勇助は問い詰めた。
好美は怒りを抑えて言った。
「ちょっとあんた、人が来るから酒をやめなさいって言ったでしょ?」
家庭内の秩序を守ろうとする母親のそれだった。
「は?」勇助は首をかしげた。その動作は、彼の無関心さを如実に表していた。
赤沼は自己紹介をする。
「私、赤沼整備の者で、テレビの調子が悪いと聞いて、見に来ました」
「あ、修理屋さん?」勇助は興味津々だった。
「はい」と赤沼は答えた。
その間も喜助はおとなしく座っていた。
勇助は酒をかかげて言った。「修理屋さん、飲みますか?」
赤沼は丁重に断った。「いえいえ、仕事中なんで」
「じゃあ、何か、麦茶でもね」と好美は提案した。
「お構いなく」と赤沼は礼儀正しく応じた。
次の瞬間、勇助は喜助を蹴った。
「何ボケっとしてんだ?麦茶持ってこいよ」と勇助は怒鳴った。
好美は苦笑いしながら言った。「ちょっとあなた、人様の前で…」
喜助は何も言わず台所へ向かった。
彼の足取りは、この家の重苦しい空気を背負ってるかのようにゆっくりだった。
そんなことはお構いなしに勇助はテレビに目をやった。
「このテレビなんですけど、直ります?」と赤沼に尋ねた。
赤沼は台所に行く喜助の後ろ姿を見つめていた。その目は、何かを探るように、喜助の背中に焦点を合わせていた。
「修理屋さん?」勇助は再度尋ねた。
「あ、はい。見てみますね」赤沼はテレビの修理に入った。
ここの家庭はおかしい。
赤沼はノートに調査と書いた。
数日後。
篠塚家はいつになく幸せの空間を作っていた。
公園のベンチに座る3人の姿、勇助、好美、そして喜助。
表情は穏やかだった。
喜助はおにぎりを頬張りながら、父親の隣で笑顔を見せていた。その笑顔は、この一時的な平和を心から楽しんでいるかのようだった。
好美は、家族が一緒にいるこの瞬間を心から楽しんでいるようだった。彼女の目は、愛情に満ちており、時折、喜助と勇助の顔を交互に見つめていた。
「おにぎり、まだいっぱいあるからね」
喜助は頷いて、口をふさぐ手を離さない。勇助が酒を飲み干すと、彼は喜助に向かって言った。
「喜助、豪華なレストランに行くだけじゃなく、こういうのも外食って言うんだぞ」
喜助は笑顔で答えた。
「俺好きだよ、こういうの」
好美は微笑んで、彼らを見つめていた。
彼女の微笑みは、この小さな幸せを大切にしたいという願いを表していた。喜助がもう一個おにぎりを手に取ると、好美は許可を出した。
「いいわよ」
勇助は少し悔しがるように言う。
「でもほんとはな、豪華なレストランに連れていってやりたいんだがな。すまんな、稼ぎが悪くて」
喜助は優しく応えた。「いいよ、別に」
しかし、勇助は続けた。
「でもそのうち見てろ。お父さんな、すげー金持ちになってやるから。今はプータローだけど、絶対社長になってやるから。そしたら、好きなもん何でも買ってやるからな。」
喜助は静かに言った。「いいよ、今のままで。十分、幸せだから」
喜助のこの言葉が、幸せの空気を汚した。
「…は?今のままでいいだと?それは何だ?俺が金持ちになれねーって言ってんのか?あ?」
勇助は喜助の頭をはたいた。
「ちょっと、あなた」
好美は、夫の怒りを鎮めようとしたが、その努力は虚しく、勇助の怒りはさらに燃え上がる。こうなったら勇助は止まらない。
「十分幸せだ?あんなボロアパートに住んでて、どこが幸せなんだ?え?」再び喜助の頭をはたく。その動作は、彼のフラストレーションの深さを物語っていた。
「どいつもこいつも俺をバカにしやがって」
再度喜助の頭をはたく。
好美は周りを気にしているが、勇助はお構いなしだった。
そんな中、喜助はポケットからカッターを取り出した。
「何だ、お前、一丁前に」
怒りに震える喜助は勇助に突進したが、勇助は軽くかわした。
「バカか、お前」
何度目か喜助の頭をはたいた。
「カッターなんかで俺に勝てるわけねーだろ?」
勇助の強めの蹴りで喜助は路上に吹っ飛んだ。
走ってきた車が急ブレーキをかけた。
喜助は車にひかれそうになるが、ギリギリで止まった。
それをも見ずに勇助は帰ってしまった。
好美は車の運転手に駆け寄り、頭を下げた。
「申し訳ございません」
車は走り出し、今度は好美は周りの人々に頭を下げた。
赤沼は遠くからその光景を見つめていた。
それからさらに数日後。
「赤沼整備ですけど」
静かな声が、玄関のドアを通じて好美の耳に届いた。
「あのー、ご主人はいらっしゃいます?」と赤沼は尋ねた。
好美は答えた。「え?いないとダメなんですか?」
「できたら」と赤沼は言った。彼の目は、好美の反応を探るように細められていた。
「今、仕事行ってまして、あと1時間くらいは帰ってこないと」と好美の言葉は、不安を隠そうとするが、隠しきれていなかった。
「じゃあ、待たしてもらってもいいですか?」
好美は一瞬躊躇したが、 「まあ」と言って、赤沼を中へ招き入れた。
好美はお茶を出し、彼の前に置いた。
「どうぞ」と好美は言った。
赤沼はお礼を言ったが、その声には何か他の意図が隠されているようだった。
「テレビは直るんですか?」と好美は尋ねた。
「ええ。部品変えればすぐ映りますよ」
赤沼の答えは機械的で、感情を欠いていた。
「あ、そうなんですか。…えーと、夫を待たないとダメなんですか?」と好美は言った。
赤沼は考え込んだ。「そうですね。最近どうですか?」
「何がですか?」
赤沼は立ち上がり、好美に近づいた。
彼の動きには、猛獣が獲物に忍び寄るような緊迫感があった。
「何って?息子への暴力ですよ。あれは許せないですねー。そして私はね、あなたも許せないんですよ。あなた周りのことばかり、気にしている。息子が殴られていて止める理由は、息子の心配じゃなく、周りに変な風に見られるからでしょ?私がもっとも嫌うタイプだ。だからあなたにも、罰を与えます」
好美は赤沼の異様な雰囲気に逃げようとしたが、赤沼は彼女を捕まえた。彼の手は、鋼のように冷たく、容赦なかった。
夕暮れの篠塚家アパート。
勇助が帰宅する。
何か様子がおかしかった。家の中から漂う空気は、息がつまりそうなほど重かった。
「おい、好美いないのかー。喜助ー」と勇助は叫んだ。
返事がない。
ただ、家の中からは、何かがおかしいと告げるような、不穏な空気が漂っていた。勇助は中に入った。
すると好美がキリストのように十字架に縛られている姿を発見した。
好美は気を失っていた。彼女の顔は、恐怖の最後の瞬間を凍らせたかのように、青ざめていた。勇助は彼女の元へ駆け寄った。
「おい、好美。大丈夫か?」と彼は叫んだ。
勇助は気配を感じて後ろを振り返った。
赤沼は棒を振り下ろした。