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私たちは完璧じゃない。だから

私たちは完璧じゃない。だから…
この言葉に続く言葉はなんだろう?その答えは人の数だけあるのだと思う。

いつも断定はしたくないと、最近思う。決まった答えなんてこの世には何もないと思うから。人の数だけ答えがある。あっていい。もし、自分の答えに自信が持てないときは、いろんな人と話してみるといい。答えを求めるためじゃなくて、「いろんな答えがあっていい」ということに気づくために。

一人で答えを出して、ひとりで決めていく。最後はそうするしかない。だって、自分の人生だから。でも、自分の中の答えだけで、自分の価値観だけで、経験だけで、決めなくてもいい。たくさんの人の価値観に触れることで、自分の答えに確信を深めていけばいい。

人の意見の中に答えを求めると、自分の答えに自信がなくなってくるよね。

だけどそうじゃない。誰かがあなたを救ってくれるわけじゃない。
あなた(私)以外の誰かは、「あなた(私)は、自分で答えに辿り着けるんだ!ということを気づかせてくれる存在」に他ならないのだ。

そして、自分の答えに自信を持つことと同じくらい「自分の価値判断を疑う」ことも大切に思う。「自分はこうである」という決めつけが、何よりも自分の首を絞めることがある。変化を拒否してしまう。

その決めつけは、何が生んだものだろう?いつからその癖が始まった?苦しい。ここに向き合うのは本当に苦しい。

私はたぶん、家族、家庭というものに自信がない。家族=苦しいもの、安全ではないもの、頑張らなければ保てないもの、傷つかなくては守れないもの。と思ってしまっている。私は自分が家庭を持っていることをイメージできない。傷つかないで愛されることをイメージできない。未だに癒されない深い傷がある。

だからと言って、私は不幸せではない。こう言葉にできるまでになったから。うまくいってないわけでもない。むしろ、初めて安心できてるかもしれない。幸せを感じることもでき始めてる。成人してから初めて、同じ場所で1年を迎えた。日常を楽しむ術も覚えた。

だからこそ、
幸せな今だからこそ向き合えることがある。

自分を癒すこと、自分を満たすこと、自分を愛すること、自分のために生きること、自分を労わり、ケアすることを。それを自分にしてあげてもいいのかもしれないということを、今なら受け入れられるかもしれない。

この1年、いろんな方面から言われてきた。
『愛されていいことを知ってください。もっと愛される体験をしてください。守ってもらってください。』

正直「???」だった。

「充分よくしてもらってるし、助けられてるし、たくさん愛をもらってるのにもっとですかい??」って。

でも、なんとなく今ならわかる気がする。
私は愛をもらうには条件が必要だと思っていた。(多分、今も)何かを与えなければ、何か役に立たなければ、頑張らなければ「愛されない。大切にしてもらえない。話を聞いてもらえない。存在してはいけない。」そう未だに思っていることに気がついてしまった。

何もしなくても、愛される。
多分、この経験が私の今までの人生には限りなく少なかった。(私が許してなかった)

必死だったんだなって思った。生きるために必死だった。愛されようと、必要にされようと必死だった。価値のある人間だと証明したかった。じゃないと、生きていてはいけないと思い込んでいたから。

もう、いいのかもしれないね。
頑張らなくても、必死になって証明しなくても、
自分を生きていいのかもしれないね。

2022年8月7日 0:33




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